『菩提道次第小論』では省略されているが、『大論』では幻ないしは鏡像の比喩が、事物の無自性なることとどのような点で等しく、どこで異なっているかについての議論がなされている。
それゆえ、鏡像に顔〔の実体〕がない(gzugs bsnyan byad bzhin gyis stong pa)と理解することによって、〔その鏡像が〕本物の顔であると執着することはなくても、鏡像が本当に存在すると執着する〔ことはあるが、そこに〕何の矛盾があろうか。この点についても、言葉を学んでいない(brda la ma byang ba)幼児たちが、顔の鏡像を見たとき、その〔鏡像〕に対して戯れたりするので、かれらは〔その鏡像が〕本物の顔であると執着しているのであるが、言葉を学んだ年長者たちは、それら〔鏡像〕は〔本物の〕顔ではなく、〔本物の〕顔としては空であると確信していても、顔として現れている鏡像それ自身が、それ自体で存在していると執着するものは、真実執着〔である無明〕である。それはまた〔自らの〕心にあると、経験によって成立する。
そうではあるが、どうして〔鏡像や幻が〕無自性の喩例として適当であるのかというと、現れているもの自体に関して空である(gang du snang ba de'i ngo bos stong pa)ので、現れているものの自性がないこと(gang du snang ba de'i rang bzhin med pa)が直接知覚によって成立する。それゆえ他ならぬその〔鏡像や幻〕を喩例にするのである。
現れているものの自性に関して空であるというそのことが、芽などにおいて量によって成立するならば、芽の自性がないことが理解されるのであって、〔そのことは〕鏡像など〔に現れている顔に実体がないこと〕とは別である。
このことは、「これらの壺などは真実なものとしては存在せず、世間で広く承認されたもの('jig rten rab tu grags pa)として存在しいているのと同様」(『入中論』IV, 113ab)といって、実在論者に対して壺などを無自性の喩例として挙げていることも、鏡像などと同様、一面的な空(nye tshe ba'i stong pa)〔の喩例として挙げた〕のであって、それら〔壺など〕の自性が存在しない〔という、限定なしの空の喩例として挙げた〕わけではない。なぜならば、前述したように、〔壺と同様〕車など〔の世間で広く承認されたもの〕に自性が存在しないことについての、多くの論証をお説きになっているからである。
同様に幻においても、観客の一部のものは〔幻が〕本当の馬や象などであると執着し〔ているものを〕幻術師が馬や象が偽りのものであると知っているのも一面的な空である。
夢において知覚する器世間・情世間の事物についても、目が覚めたときにはそれらが現れている通りのものではない(ji ltar snang ba des stong pa)偽りのものであると把握する場合と、ふたたび眠りについたときに、同じ様に〔それらが偽りのものであると〕把握する場合のいずれにおいても、夢〔に〕男女として現れたものは、他の〔現実の〕男女ではないと把握してはいるが、夢〔自身〕が無自性であると理解しているわけではない。〔それは〕たとえば、鏡像などが〔本物の〕顔ではないと確信〔していても、鏡像が空であると理解しているわけではない〕のと同じである。
前に「幻や蜃気楼などにおいて虚構されたものは、世間の観点からも存在するものではない」(『入中論』VI, 26cd)と引用したように、蜃気楼や幻、夢において、水、馬・象、男女などが存在していると把握されるが、それらは、自己満足的な(rang dga' ba)言説の量によって否定排除される(gnod pa)ので、彼ら〔蜃気楼や幻、夢を見る人々〕が〔あると〕思っているような実物は存在しないと知っても、それは法が無自性であると理解している見方(lta ba)ではない。
ツォンカパの主張は単純である。幻や鏡像に現れている諸事物は、現れている通りの実体は存在しない。そのことは通常の言説の量でも理解されていることであるが、まさにそれ故に、それらは、諸事物に、その実体、すなわち自性がないことの比喩となるのである。ただし、その場合、幻や鏡像自体が無自性であることが理解されているというわけではない。比喩は比喩に過ぎず、それを真実の理解そのままであると考えてはいけない、ということである。
「一面的な空」というのは、例えば幻術師は自分が作り出した幻に実体がないことは知っているが、幻それ自体に自性がないことは理解していないからである。空の意味を半分しか理解していないのではなく、比喩的な意味での、不十分な空の理解に過ぎないのである。十全な空とは、そのもの自体の自性が存在しないことである。幻術師は、自分の作り出した幻の象が本物の象でないことを知っているだけであって、あらゆる存在に妥当する、そのものそれ自身の自性の有無を知っているわけではない。
それにも関わらず、ツォンカパは繰り返し幻の比喩を用いる。前にも書いたように、この幻の比喩は、縁起の現れとそれが無自性空であることとが同時に成り立っていると主張する中観派の不共の勝法と等価な思想であり、同じ不共の勝法と等価な思想のうちでも、後期のツォンカパの中観哲学の中で、唯一生き残っている表現方法である。そのことは、これが、それを理解するものの知のあり方によって左右されないことを意味している。それを把握する知とは関係しない、物事の真の存在の仕方を言い表しているのである。幻の比喩も、それを把握している人の知にどのように理解されているかではなく、幻自身のあり方として、現れつつ実体がない、という複合した構造が意図されているのであり、それこそが中観派の不共の勝法の主張内容に他ならない。
実際にはこの幻術師の比喩は、最後期の『入中論釈・密意解明』においては、発展的に自立派の主張を述べる箇所に使われるようになり、同書においては、「幻の如し」という表現は極端に減っていく。最後期の二諦論では、世俗諦と勝義諦は、同時に成立する補完的な存在論的構造というよりも、それを見る側の知のレベルによって段階分けされ、同一基体性の強調は減っていく。
比喩は比喩であり、現実のあり方をそのまま表現しているわけではない。その意味で制約のある内容になっている。しかし、そのことを念頭に置くならば、真実のあり方へのイメージを喚起するよいモデルとなっているということができるのであろう。