前回の記事では、ツォンカパが『善説心髄』において、帰謬派にとっての批判対象である「自性(自-相)によって成立するもの」を言語論的な格率によって規定する主張を取り上げた。その議論に入る直前に、なぜその議論が重要であるのかを次のように指摘している。科段としては前の節に属するが、内容としては「自性によって成立するもの」が何を指すかについての議論を導き出す役割を担っている。
また、『入中論』釈に、
勝義として生じることがないので、それ自身から〔生じること〕も、他のものから生じることも否定されたとしても、現量および比量の認識対象となっている色や受などの自性は、他のものから生じるものでなければならない。もしそれを認めないらならば、諦が二つ〔ある〕とどうして言うことができようか、〔すなわち〕諦は一つしかないことになってしまうであろう。それゆえ、他のものからの生起はなければならないのである。(MABh, p.119, ll.10-15)と説かれている。すなわち、以前、自相によって成立している原因と結果とを否定した際に、勝義としてそれらを否定することで他のものからの生起が退けられるのは正しいけれども、言説として自性あるいは自-相による生起である他のものからの生起は認めなければならない。もしそれを認めないならば、世俗としても諦は存在しないこと〔になってしまう〕ので、世俗諦は存在しないことになってしまうであろう。〔以上のように〕非難するものに対して、〔『入中論』の二つの偈(VI, 35-36)で〕順番に、自-相によって〔成立している〕生起は、二諦のいずれにおいても存在しないと論証しているが、それは、勝義としての生起はなくても、言説として自-相によって〔成立している〕生起があると主張する〔中観派〕に対して〔二諦のいずれにおいても自-相による生起はないと〕論証しているのであって、実在論者に対して〔行った論証〕ではない。それ故、中観二派に、否定対象のそれだけの違いがあるならば、チャンドラキールティは、なぜそれを特別に取り上げた否定をなさらなかったのか、と言うのは正しくない。(LN, pp.141-142)
帰謬派が、勝義としても世俗としても自性あるいは自-相による生起は存在しない、と主張するのに対し、自立派は、勝義としての生起は否定するが世俗としては自性による生起があると主張する。この世俗としての自性による生起を認めるか認めないかという点にこそ、自立派と帰謬派の相違があり、また帰謬派から自立派に対する批判もその点を問題としているのだとツォンカパは考えている。最後に登場する批判者は、もしそうであるならば、なぜチャンドラキールティがそのことを主題的に論じていないのか、と批判しているのであるが、ツォンカパによれば、二諦のいずれにおいても自性による生起が成り立たないという論証自体が、実在論者に対するものではなく、帰謬派の自立派に対する論証にほかならないので、そのような批判は当たらないと答えているのである。
ここで、「世俗としても」自性による存在がない、ということよりも、「二諦のいずれにおいても」自性による存在を認めないということの方が重要視されていると考えることができるであろう。そのことは、二諦を別々のものとして切り離して設定する他の学派に対する帰謬派独自の立場が背景にあるとも言える。自性によって成立するものが存在しないということは、言い換えれば、絶対的な空性のことであり、それはまた縁起していることと表裏の関係にある。これもまた根本的には「中観派の不共の勝法」に帰着する考え方であると言うことができる。単に自立派に対する帰謬派の優位性を示しているわけではない。
ここで、「世俗としても」自性による存在がない、ということよりも、「二諦のいずれにおいても」自性による存在を認めないということの方が重要視されていると考えることができるであろう。そのことは、二諦を別々のものとして切り離して設定する他の学派に対する帰謬派独自の立場が背景にあるとも言える。自性によって成立するものが存在しないということは、言い換えれば、絶対的な空性のことであり、それはまた縁起していることと表裏の関係にある。これもまた根本的には「中観派の不共の勝法」に帰着する考え方であると言うことができる。単に自立派に対する帰謬派の優位性を示しているわけではない。
このような指摘を踏まえて、次に「それでは、その自-相似よって成立ものとは何を指しているのか」という問いが立てられることになる。それに続く議論が前回の記事で紹介した議論である。
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