以前、『印度学佛教学研究』に短い論文を書いた。考え方が特に変わったわけではないが、同時に特に多くの人に理解されているわけでもなさそうなので、もう少し丁寧に議論を展開したいと思い、新たな論文を企画した。しかし、調べ始めてみると、もう少し全体を見通した記述が必要なことが分かり、しかし、それを説明していると逆にポイントが分かりづらくなってしまうというジレンマに陥っている。
ツォンカパの中観思想は、『ラムリム・チェンモ』を中心とした初期と、『善説心髄』および中論注『正理大海』を著した1407年を中心とする中期と『ラムリム・チュンワ』と『密意解明』を中心とした後期(あるいは晩年の時期)に分けることができる。
何がツォンカパの中観思想の中心的主張であるかという問いに答えることは難しい。「言説においても自性によって成立しているものを認めないこと」が挙げられることは多い。ツォンカパ自身もこのテーゼを、帰謬派の立場を他と異ならしめる重要な論点と捉えていた。しかし、これはむしろ、より根本的な原理から派生する主張の代表的なものの一つと考えるべきであるように思う。特に『善説心髄』では、どのように捉えることが「自性によって成立するもの」であると捉えることになるかが問われる。これに対するツォンカパの答えは、言語的な活動に着目したものと言える。
『善説心髄』において、中観派の立場を述べるときに、中観派一般の立場として、前期から続いている「中観派の不共の勝法」を簡単にまとめた後、自立派と帰謬派に分けて、それぞれの立場を論じている。自立派の立場についてまとまった論述になっている点で注目すべき箇所ではなあるが、それはまた別の機会に検討するとして(かつて書いた論文もあるが、再検討は要する)、それまでの唯識派、中観自立派を踏まえ、それらと異なる帰謬派の立場を述べる箇所で、次のように議論を運んでいる。
すなわち、自立派の人たちは、帰謬派と自分たちの間に論証法以外の点で違いはないと考えていた。とりわけ二諦の考え方については帰謬派を批判することなく、意見の相違はないと考えていた。ところがチャンドラキールティは、自性によつて成立するものを二諦のいずれにおいても認めないということが、それ以外の立場、特に自立派との決定的な相違であと主張した。
これは逆に言えば、他の立場において(とりわけ中観自立派において)承認される「自性によって成立するもの」が帰謬派にとって、根本的な否定対象となるということを意味している。これこそが帰謬派を自立派から区別するメルクマールということになる。そこでツォンカパは、一体他の立場が承認している(そして、それを帰謬派が否定する必要のある)「自性によって成立するもの」とは何かを問題とする。
「その語の意味するものの実体が何であるかを考察し、それが確認されて初めてその語の対象が存在していると設定できる」と、帰謬派以外のものは主張する、というのがツォンカパの理解である。たとえば、「この人がこの業を積み、この果報を受けた」と言われたとき、その「人」という語が指している対象が何であるかを確認できて初めて、この言明が妥当性を持つことになると実在論者は考える。
もちろん自立派は中観派であるので、そのような「人」という語の対象としているものが「勝義において」存在しているとは認めない。しかし、我々の日常の世界においては、それは単なる言葉ではなく、対象の側に何らかの根拠があって成立しているものと自立派は考える。それ故、それらは人の意識に完全に還元されることなく、他の人にとっても共通に成立する客観的なものが認識の外部にあると認めていることになる。
言葉によって名指される対象そのものではなく、そのように名付けられる根拠を問うことが、帰謬派によって批判される実在論の立場を特徴づける格率となる。これに対して帰謬派は、そのような名指される対象が対象の側において(すなわち意識の外において)根拠付けられていることを否定する。すべての存在は、名付けられただけのものであり、それ以上の根拠はどこを探しても得られない。我々の日常世界において有意義な言明が成り立ち、そしてそれに立脚して我々の日常的な行為が成り立つということのみが、それら名指される対象の存在の有意義性を保証しているのである。このことは、実在論者にとっては受け入れがたい虚無論と映るであろう。こうして実在論者は、中観派(帰謬派)を虚無論者として批判することになる。
それに対してツォンカパ(あるいはツォンカパが考える帰謬派)によれば、命名されたものの根拠を探し求めても、どこにもそれを見付けることはできない。したがって、すべての存在は名付けられただけの存在であり、その命名の根拠になるような実体はいかなる意味でも存在しない。このような、名付けられただけの存在によって、どのように有効な因果関係が成り立っているかについては、その後の議論で説かれる(もちろん、この著作では、ということであり、同じ問題は『ラムリム・チェンモ』の時代から一貫して主張され続けている)。
今、ここで強調したいことは、帰謬派にとっての否定対象である「自性(あるいは自-相)によって成立するもの」をツォンカパがどのように設定しているかである。この著作で特徴的なことは、それが言語論的な視点から語られているということである。他学派は、言葉によって名付けられたものの根拠を探し求め、それが得られたときに初めてその対象の存在を措定できると考える。帰謬派は、そのようなものを探し求めても得られないが、対象の存在は措定できると考える。そこに相容れない対立点があるとツォンカパはこの著作で主張しているのである。
ただし、この問題にはいくつかの限定が付される。まず第一に、ツォンカパによれば、帰謬派以外のすべての学派は、存在をこの格率によって措定していることになるが、ツォンカパ自身はその典拠を挙げているわけではない。彼の考え方の元になっているのは、チャンドラキールティの『プラサンナバダー』におけるディグナーガ批判の一節である。しかも、もともとの文脈とは異なった議論で用いているのである。これが典拠であるとすれば、そのチャンドラキールティのディグナーガ批判の背後にある考え方を取り出し、それを自立派批判の文脈に転用していることになるあろう。
もう一つ注意すべき点は、この「自性(自-相)によって成立するもの」の議論は哲学者(すなわち学説論者)が行っているものであって、それ以外の普通の人は、特にこのようなあり方を問うことなく日常の言語活動を行い、しかも対象がそれ自体で成立しているという倒錯した見方をしているということである。すなわち、ツォンカパがここで「自性によって成立するもの」を問題視し、それを批判しているのは、そのように主張する学説論者に対してだけであって、そのことによっては有情を輪廻に縛りつけている根本である無明を特定しているわけではないし、それを否定することができるわけでもない。この二つの議論の違いは、いつも明示されるわけではなく、我々が個々の議論のコンテキストから読み取らなければ、ツォンカパの意思を正確に理解することはできないのである。
世俗においても「自性によって成立しているもの」を認めないという主張は、ツォンカパの根本的な主張として初期から後期まで一貫しているが、「名付けられた対象の実物を探して得られたること」ことによって「自性によって成立するもの」が設定されるという言語論的な格率は、この『善説心髄』以外にはあまり見られない。(実際には、後期の『ラムリム・チュンワ』の二諦説の箇所(LMChung, pp.106, 108)と『密意解明』の自己認識批判の箇所(Zhol版159b3)にも現れるが、議論としてではなく単に言及されるに過ぎない。あるいは検索の漏れもあるかもしれないが、それにしても、議論の対象とはなっていないだろう。)では、他の著作で「自性(自相)によって成立しているもの」がどのように規定されるかについては、また別の機会に述べることにしたい。
それならば、どのように捉えるならば、自相によって成立していると捉えている〔ことになる〕のかと問うならば、この点についてまず、学説論者(grub mtha' smra ba)の説を述べよう。
「この人がこの業を行った(=積んだ)。この果報を受けた」という言説が用いられたとき、〔その人〕の五蘊が〔その〕人であるのか、それともそれら〔五蘊〕とは別のものが〔その人であるのか〕と、「人」という言説が用いられた、その〔人の〕実物(don)を探し求めて、同一物であるか別物であるか(don gcig pa'am don tha dad)など、何らかの結論(phyogs)が得られたのち、その人を措定する対象('jog sa)ができたならば、業を積んだ人などを措定することができるが、〔探しても実物が見つからず、いかなる結論も〕得られないならば〔業を積んだ人を〕措定することはできない〔と実在論者は考える〕。それ故、「人」という言説が用いられただけで満足せず、その言説がいかなる〔実物=基体〕に対して用いられたのかと、その〔言説〕設定の基体(gdags gzhi)がどのようなであるかを考察し、探し求めてから措定するならば、〔その〕人は自らの定義的特質(rang gi mtshan nyid、自-相)によって成立していると措定するのである。自部(=仏教徒)の毘婆沙部から中観自立派にいたるまでのすべてのものが以上のように主張するのである。
同様に色・受などの有為法から無為法に至るまでの全て、〔たとえば〕経量部が障碍の触を排除するだけの絶対否定(med dgag)を虚空と設定するものに至るまでの全てのもの、すなわち量によって〔認識されて〕成立すると主張する全てのものを、存在するものとして措定するとき、(LN, pp.142-143)
世俗においても「自性によって成立しているもの」を認めないという主張は、ツォンカパの根本的な主張として初期から後期まで一貫しているが、「名付けられた対象の実物を探して得られたること」ことによって「自性によって成立するもの」が設定されるという言語論的な格率は、この『善説心髄』以外にはあまり見られない。(実際には、後期の『ラムリム・チュンワ』の二諦説の箇所(LMChung, pp.106, 108)と『密意解明』の自己認識批判の箇所(Zhol版159b3)にも現れるが、議論としてではなく単に言及されるに過ぎない。あるいは検索の漏れもあるかもしれないが、それにしても、議論の対象とはなっていないだろう。)では、他の著作で「自性(自相)によって成立しているもの」がどのように規定されるかについては、また別の機会に述べることにしたい。
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