前回は、特に後期の『菩提道次第小論』に節を立てて論じられる部分を訳出した。ここでは、その意味を考えてみることにしたい。
今回和訳したところは実は若干の精粗の違いや言葉の異同はあるにせよ、ほとんど、最初期の著作『菩提道次第大論』と重複している。ここの部分は初期から後期に至るまで同じ思想が持続していることを示している。
以下に示すように、この幻の比喩の根底には中観派の不共の勝法と同じ存在論が前提とされ、またそのことを示すための別の説明となっている。それが、表だって中観派の不共の勝法に言及することのなくなった後期においても、ほぼそのまま受け継がれていると言うことは、存在論的には、同じ思想がずっと根底にあることを示しているであろう。
前回の私訳を通読すれば、そこで同じ内容が何度も繰り返し語られていることに気付くであろう。幻や鏡像を喩例とし、人や法について、
- 言説知に現れていること
- 正理知によって自性の存在が否定され、それらが自性によって成立しているものに関して空であること
まず、1の「現れ=縁起」と同じことを述べているのは、
- あるものとして現れること
- 人として現れること
- 業を積むもの、見られるもの・聞かれるものなどの縁起している因果関係にある全てのもの
- 人などが言説知に疑いようもなく現れる
- 現れが立ち上がる
- 疑いようもなく現れている人についての諸々の言説
- 人が「業を積むもの」「果報を感受するもの」として措定される縁起の側面
- 業を積むもの、果報を感受するもの、前世の業・煩悩によって転生すること
一方、2の空の側面については次のような表現が用いられている。
- 現れたものが存在に関して空である
- それ自体で成立している自性に関して元から空である
- 自らの特質によって成立している自性は微塵もない
- 人が、それ自体で成立している自性に関して空であると正理知で確信する
- 諸法に、それ自体で成立している〔自性〕があるかないか考察する正理によって繰り返し考察したのち、そのような自性は存在しないという強固な確信が生じる
- 人に、自性によって成立しているものは少しもないという確信を強固なものとする。
- 人についても、自性によって成立しているものは塵ほども存在しない
いずれにせよ、この縁起の側面と空の側面は、常に対になって述べられ、しかも「空であるけれども、現れる」あるいは「現れることと空であることの二つが同時に成り立つ」という文脈で用いられている。これは、中観派の不共の勝法と同じ構図である。
実際、『菩提道次第大論』で「人が幻の如く現れる」という科段のもとに、この『菩提道次第小論』よりもやや詳しい内容が見られる。また、ここに訳出しなかった「幻の如くに現れる誤った〔現れ〕方」の中に、
前に説明した否定対象の境界線を正しく把握しないままに対象について正理によって考察して分析するとき、その対象が存在しないという〔考え〕が最初に生じ、それから考察をしている人についても、それと同様に思われて、〔対象が〕存在しないと確定する人もまた存在しないので、何についても「これである、これでない」という確定をする余地がなくなってしまって、現れが曖昧なものとなった〔そのような〕現れが立ち上るのも、自性の有無と単なる有無を区別しないことによって生じたものであり、したがって、そのような空性も縁起を破壊する空性であり、それゆえ、それを悟ることによって導き出される〔霧のように〕曖昧模糊として立ち現れる現れもまた、幻のごとく〔現れること〕の意味では決してないのである。とあるように、「幻の如き現れ方」の誤った理解も、結局のところは自性による有無と単なる有無という四つの様態の違いを区別していないことに帰着する、とツォンカパは言う。この四つの様態は既に述べたように、ツォンカパ中観哲学の最初の主著である『菩提道次第大論』毘鉢舎那章の中心思想である「中観派の不共の勝法」の一パターンである。それがこのように最後期の『菩提道次第小論』にも言及されているということは、たとえ「中観派の不共の勝法」という呼称が用いられなくなったとしても、その根本思想は後期に至るまで受け継がれていると言えるであろう。
もちろん、単純に「中観派の不共の勝法」の思想が後期にまで持続したと言えるわけではない。この『菩提道次第小論』の幻の如き現れの箇所は、人無我の詳論の中に含まれるが、その人法二無我の議論そのものが、『菩提道次第大論』の人法二無我の議論からの採録になっており、それに先行する『大論』の否定対象の議論と自立論証批判とは『小論』ではなくなっているが、否定対象の議論が「中観派の不共の勝法」を詳述する箇所であり、自立論証批判と人無我の議論は、その応用にすぎないからである。
さらに二諦に着目すれば、『大論』と『小論』の違いが認められ、その二諦の詳細な検討こそが後期思想の特徴とも言えるのである。
いずれにせよ、ツォンカパの中観思想が初期と後期で変わったのかどうか、ということはそれほど重要な問題ではなく、また解決の付く問題とも言えない。むしろ、それぞれの著作での特徴的な思想構造を問題として、その著作そのものをよりよく理解することができるようになれば、それで十分である。そして価値判断などを持ち込まずに、虚心にツォンカパの言葉に耳を傾け、それを再現できればと思うのである。