2013年5月18日土曜日

幻のごとき存在

 ツォンカパの中観関係のテキストでは、全時期に渡って、sgyu ma lta bu「幻のごとき〔存在〕」という表現、ないしはその亜種(sgyu ma bzhin du, sgyu ma dang 'dra ba, sgyu ma'i dpe, sgyu ma'i don etc.)がしばしば用いられる。

 中観関係のみならず、他の顕教のテキストや密教関係の著作にも出てくるが、この場合は、ツォンカパが究竟次第の階梯の中で重視する sgyu lus (幻身) との関連もあるのかもしれない。

 「幻」の部分は同じであるが、著作によって、その主語になるもの、および「の如し」の部分の種類に違いがある。たとえば『菩提道次第大論・小論』では lta bu「如し」が多いが、『善説心髄』ではそれはなく、それ以外の表現がいくつか用いられる。『入中論釈・密意解明』では、そもそも言及も限られる(が数例は見られる)。いずれにせよ、注釈を除く中観関係の大著は『菩提道次第大論』『善説心髄』『菩提道次第小論』であるので、それらにおける用例を細かく見ていく必要がある。が、ここでは、サチェー(見出し)にも取り上げられている『菩提道次第小論』の内容を示すことにしよう。

 とりあえず、今回は必要箇所の和訳(だいたい、当該科段の2/3程度)に当たる。以下、「諸法が幻の如くに立ち現れる」ことを説明する部分の前後の科段を示す。ページ数はショル版のものでおおよその分量が分かるであろう。科段の番号は、『西蔵仏教基本文献』第1巻、東洋文庫(1996)、p.32による。

S1: 人無我をどのように確定するか
 T1: 〔否定対象たる〕人を特定する (162a6)
 T2: 人に自性がないと確定する
  U1: 私は無自性であると確定する (163b2)
  U2: 私に属するものは無自性であると確定する (165b4)
  U3: 以上に依って人が幻の如くに立ち現れる仕方を示す
   V1: 〔経典に諸法が〕幻の如しと説かれた意味を示す
    W1: 幻の如き立ち現れの正しいあり方(166a4)
    W2: 幻の如くき立ち現れの似て非なるあり方  (168a2)
   V2: どのような方法によって〔諸法が〕幻の如くに立ち現れるようになるか (169b2)
S2: 法無我をどのように確定するか (170b2)

この科段でも、以下の和訳でも「人」という語が出てくるが、これは現代日本語の「人」の意味ではなく、仏教用語で、言わば「人格的な主体」と考えられているものであり、「私」という言葉を使うときに漠然と考えられている存在者、および、同様の衆生などの行為の主体となるような人格的存在者を指している。このような存在が「無我」すなわち無自性であるというのは、最初期からの仏教の根本的テーゼである。
 この部分の訳を作っていてしばらく時間がかかってしまった。ひとまず今回は和訳を挙げ、そこに説かれている内容についての議論は次回に回すことにしたい。現代語訳には他に

  1. ツルティム・ケサン、高田順仁訳『『菩提道次第論・中篇』 : 観の章 : 和訳』(ツォンカパ中観哲学の研究, 1)、文栄堂(1996), pp.49-63.
  2. ツルティム・ケサン、藤仲孝司訳『悟りへの階梯:チベット仏教の原典『菩提道次第論』』、星雲社(2005), pp.276-281.
  3. Jeffrey Hopkins, Tsong-kha-pa's final exposition of wisdom, Ithaca N.Y., Snow Lion Publications (2008). pp.75-85


がある。以下に訳出した箇所の多くは『菩提道次第大論』でもほぼ同じように述べられている。
 第一(V1W1)「幻の如き立ち現れの正しいあり方(sgyu ma bzhin du 'char tshul phyin ci ma log pa)」
 (中略)
『仏母経(般若経)』にも、色から一切智に至るまでの一切法は幻や夢の如しと説かれている。
 そのように説かれている「幻のごとし」の意味は二つある。すなわち、勝義諦が幻の如きものであるとおっしゃったように、唯有(yod tsam)として成立しているけれども、諦であることが否定されたものを指している場合と、空でありながら現れる幻の如き現れの二つ〔である。〕ここでは、そのうちの後者〔の意味〕である。
 この〔幻のごとき存在〕には、あるものとして現れることと、〔その現れたものが〕現れた通りの実体の存在に関して空であることの二つが必要なのであって、ウサギの角や不妊女性の子どものように現れることさえもなかったり、あるいは現れても現れた通りの実体(don)が存在することに関して空であることが意識されない場合でも(mi 'char na yang)、幻の如き現れの意味が意識されることはないのである。
 それゆえ、他の〔全ての〕法が幻の比喩と等しいことを理解させる方法(shes par byed tshul)は、次のようになる。幻術師が作り出した幻が、馬や象に関して元から空であるけれども馬や象として現れることは疑いようもなく映じてくるの(bsnyon mi nus par 'char ba)と同様に、人などの諸法もまた、対象の上では、それ自体で成立している自性に関して元から空であるけれども〔人〕として現れることは疑いようもなく理解されるのである。
 同様に、神や人間などとして現れるものは人であり、色声などとして現れるものが法であると措定するので、人と法には、自らの特質によって成立している自性は微塵もないけれども、業を積むものなど〔の人〕や、見られるもの・聞こえるものなど〔の法、すなわち〕縁起している因果関係にあるもの全てのもの(rten 'brel gyi bya byed thams cad)もまた妥当である。
 因果関係にある全てのものが妥当であるので、虚無的な空とはならない。また、諸法が元からずっとそのように〔それ自体で成立する自性に関して〕空であることを〔あるがままに〕空であると知るだけであるので、知によって作られた空でもない。所知一切がそのようなものであると主張するので、部分的な空でもない。それゆえ、その〔空〕を修習することによって、真実把握の執着全ての対治ともなるのである。
 この深甚なる意味は、いかなる知の対象にもならないわけではなく、正しい見解によって〔本来的な空を〕確定し、その正しい意味を修習する修習〔の知〕によって対象とすることができるので、修行の過程において実践することができないとか、覚られるべきもの(rig rgyu)、理解されるべきものが何もないような空でもない。
 (中略) 
 第二(V2: thabs gang la brten nas sgyu ma lta bur 'char tshul)、それでは、どのようにしたら、幻の意味が不顛倒に理解されるようになるのか、と思うならば、〔答えよう〕。たとえば、幻の馬や象が眼識に見えることと、現れている通りの馬や象は存在しないと意識によって確信すること、〔この二つの知〕に依拠して、馬や象として現れているものが、幻である、あるいは虚偽なる現れであるという確信が生じるが、それと同様に、人などが言説知に疑いようもなく現れる〔が、それと同時に〕、その同じ〔人〕が、それ自体で成立する自性に関して空であると正理知で確信する、〔その〕二つ〔の知〕に依拠して、人は幻であり、あるいは虚偽なる現れであるという確信が生じるのである。
 それ故に、三昧に入ったとき、特質を把握する〔知〕の認識対象は微塵も存在しないという虚空の如き空性を修習できるようになったならば、その〔三昧〕から出て対象の現れが立ち上る(yul snang 'char ba)のを見たとき、後得〔智〕において幻の如き空が立ち現れる('char)のである。
 それと同様に、諸法にそれ自体で成立している〔自性〕があるかないかを考察する正理によって繰り返し考察したのち、〔そのような〕自性は存在しないという強固な確信を生じたあと、現れが立ち上ってるのを見たならば、〔その現れは〕幻の如きものとして立ち現れているのであって、幻の如き空を、〔それとは〕別に確定する方法はないのである。
 (中略)
 その確信を求める仕方を分かりやすく述べるならば、前に説明したように、正理の否定対象一般を正しく〔意識に〕立ち現れさせ、自心の無明によって増益された自性〔がどのようなものであるか〕を正確に特定できなければならない。それから、そのような自性が存在するならば、同一であるか別異であるかのいずれかでなければならず、そのいずれを認めても、それに対する反対論証が生じることについてしっかりと考えて、反対論証が見られるという確信を引き出さなければならない。最後に、人に自性によって成立しているものは少しもないという確信を堅固なものとしなければならない。空の側面については、以上のように繰り返し学ぶべきである。
 それから、疑いようもなく現われるている人〔について〕の諸々の言説を意識の対象にもたらし、その〔人〕が「業を積むもの」あるいは「〔その〕果報を感受するもの」であると措定されるという縁起の側面を意識を向けなければならない。そして、自性のないものにおいて縁起が妥当することについての確信を得なければならない。
 その〔空の側面と縁起の側面の〕二者が矛盾すると思われるとき、鏡像などを喩例として〔それらが〕矛盾しないことについて考えなければならない。すなわち、顔の鏡像が、目や耳などとして現れている〔その実際の目や耳など〕は存在していないけれども、顔や鏡に依拠して〔その鏡像が〕生じることと、それらの縁の1つでも欠けたとき〔鏡像も〕消滅してしまうという二つのことが、疑問の余地なく両立している(gzhi mthun du 'du ba)。それと同様に、人についても、自性によって成立しているものは塵ほども存在しないけれども、〔そのことと、〕業を積むもの、果報を感受するもの、前世の業・煩悩になどよって転生することとは矛盾していないと学ぶべきである。以上のことは、その〔業を積む人など〕と同様の全ての主題について理解すべきことである。

 
 

0 件のコメント:

コメントを投稿