初期のツォンカパは「中観派の不共の勝法」という言い方で、その存在論を総称している。そのいくつかの表現形式の中に、存在と非存在についての四つの様態を区別するという考え方がある。
表面的な文言は簡単であり、少しでも仏教学や中観思想を学んだ人には馴染みのもののはずである。すなわち、
- 単に存在することと、自性によって存在すること
- 端的に存在しないことと、そのものの自性がないこと
端的に存在しない、というのは、原文では単にmed paとしか言われていない。だがこれは存在しないことに限定が付けられていないことを意味する。同様に単に存在しないことも限定されないyod paである(yod pa tsam「唯有」という言い方はあるが。)。それに対して自性によって存在することも、自性がないことも、yod paとmed paに対してrang bzhin gyisという限定が加わっているのである。
もちろん、単に存在していることは否定されず、自性によって存在することは否定され、端的に存在しないことは否定され、そのものの自性がないことは肯定される。端的に存在しないとは、限定なしに存在しないことなので、いわゆる虚無論、無辺に堕していることを意味する。当然それは批判対象である。自性によって存在すると主張し、あるいはそのように思いなすことも、有辺に堕し、あるいは無明によって増益されることなので、これも否定される。
一方、そのような限定なしに存在するとは、縁起することであり、またそれが言説有である。自性がないことは、空性の意味であり、またそれが勝義諦である。
ここまでは、理解し易いであろう。しかし、それではそのような「存在する」「存在しない」と言われる主語になるものは何かと考えると、ややこしいことになってくる。それぞれの述語で、主語になるものが異なってくる。一番単純なのは、「単に存在する」ものである。これは「諸法」すなわち、量によって存在が確認されるもの全てが当てはまる。「自性が無い」という場合も、これと同じ外延であると言っていいであろう。それらは「自性は無いが存在はしている」と一つにまとめることができる。これは、「無自性でありながら縁起している」あるいは「自性の無いものが幻の如くに現れている」と言い換えることもできる。
それでは、「自性によって存在している」ものは何であろうか。中観派の立場に立てば、そのようなものは存在しないので、(すなわち全てのものは自性を欠いているので)該当する存在、すなわちダルマは存在しない。ここには、中観派によって否定される、いわゆる否定対象(dgag bya)が妥当する。より正確には、否定対象は、自性によって成立しているもの、であり、あるいは何らかの対象が自性によって成立している「こと」が否定されるのである。チベット語では「もの」と「こと」の区別は特になされないので、それぞれに振り分けるのは、現代語の、あるいは日本語の制約による。
さて、端的に存在しないものはどうであろうか。これについては、二種類が区別される。言説の量によっても存在が否定されるもの、たとえばウサギの角のようなもの、あるいは、蜃気楼のようなものである。後者は知覚には見えているが、それが実在しないことは言説の量、すなわちわれわれの通常の正しい認識によって確認される。
一方、アートマンや我、あるいは自性によって成立しているもの、無始時来の無明の力によって、壺がそれ自体で存在していると思われている、そのような壺などである。これらは限定されることなく、存在しない。限定されないというのは、この場合、勝義においても、言説においても、という意味である。すなわち「勝義において」あるいは「言説において」というのが存在・非存在に対する限定であり、限定なしということは、このいずれの場合にも、存在する、ないしは存在しないということである。
自性によって存在するものと組み合わせるならば、「自性によって存在するものは、勝義においても言説においても存在しない、すなわち端的に存在しない」ということになる。チベット語で言えば、rang bzhin gyis grub pa med paである。より正確には、rang gi mtshan nyid kyis grub pa'i rang bzhin med paである。これは、自性の有無を伺察する正理によって得られない(認識されない、その存在が確立されない)が故に、存在しないとされ、そのようなものは、勝義においてだけではなく、言説においても存在しないとされる。
これが「勝義無」の意味である。勝義において存在しないが、世俗においては存在する、という意味ではない。勝義において存在しないものは、世俗においても存在しない。勝義において自性を欠いたものは、世俗においても自性を欠いている。
それでは、われわれは世俗において自性を欠いたものを認識しているのであろうか。そうではない。無明によって汚されたわれわれの意識には、世俗のものは、自性によって、あるいはそれ自体で存在しているように見えているのである。
それでは、われわれの世俗の認識は全て否定されることになるのであろうか。なぜならば、自性によって成立しているものは、世俗においても否定されるべきものだからである。
しかし、それでは、ツォンカパの主張する中観派の不共の勝法が成り立たない。これは縁起しているものが同時に無自性でもあり、その二つは矛盾することなく一つのものにおいて不可欠のものとして、常に同時になりたっている、と主張するものだからである。
この隘路をツォンカパは次のように解決する。世俗の存在、すなわち言説有を確定するのは、無明による迷乱知ではなく、言説の量である。これは論理的な仕組みで認識が成立するのであり、自性の有無には関わらない。すなわちその存在は、自性があるかどうかによっては左右されない。なぜならば、その量の対象は事象ではないからである。すなわち自性の有無を棚上げにして、個々の存在(すなわちダルマ・法)を認識している。
これに自性があるか否かを考察し、そしてその結果自性がないと理解するのは、別の知、すなわち正理知であり、これによってその対象が幻の如き、無自性な存在であることを知ることになる。
われわれの言説の知には、対象は自性によって成立しているかのように現れている。この現れそのものは否定することはできない。そこに存在しない自性が現れているので、自性に関する限りそれは迷乱、すなわち錯誤している。しかし、言説の量によって確定されるものは自性ではないので、言説の量によって対象の存在が確定されることに自性は関与しない。関与しないでも言説の世界における正しい認識は可能であり、因果関係の連関は正しく機能する。すなわち、縁起が成り立つのである。
存在論的には、自性が無い、すなわち空であるが故に縁起が成り立つのであるが、縁起の世界の認識においては、自性は対象外なので、自性が見えていても、別の認識機序によって対象の存在は確定されるのである。
その別の認識機序、すなわち言説有を設定できる言説の量の条件についても、ツォンカパはとりあえず『菩提道次第大論』で三つの条件を挙げている。
- 言説の知に共通認識として成立している(tha snyad pa'i shes pa la grags pa)
- 共通認識として成立している内容が他の言説の量によって否定されない (ji ltar grags pa'i don de la tha snyad pa'i tshad ma gzhan gyis gnod pa med pa)
- 自性の有無をありのままに考察する正理によって否定されないようなもの (de kho na'am rang bzhin yod med tshul bzhin du dpyod pa'i rigs pas gnod pa mi 'bab pa zhig)
毎日書くはずがもう一週間近く更新ができなかった。今回の記事は少し長くなりすぎた。研究の毎日の記録のつもりが、必ずしも記録ではなく、論述になってしまった。とは言え、これも思いつくままに書き足し、さらに典拠を全く示していないので、論文にもならない。これをもう一度整理し、典拠を挙げていき、結論をはっきりと明示することで言説有と勝義無についての、中観派の不共の勝法の一側面を記述したいと思う。
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