- 単なる存在
- 自性による存在
- 単なる無
- 自性の無
しかし、「幻の如き存在」というのは、この四つのカテゴリーの中には位置を占めていない。にも関わらず、『ラムリム』からすでにこの表現は何度も用いられている。
この四つのカテゴリーは、何があり、何がないか、ということについての、複雑な位相を持った表現である。「一体そもそも何が存在するのか」というような単純な問題ではない。表現は単純であるが、有と無が関連して述べられることによって、見かけほど単純にシンメトリカルな内容を持っているわけではない。
しかし、いずれにせよ、これは存在・非存在のあり方の分類であり、しかも正しいものだけではなく、否定されるべき誤った設定も一緒に述べられているものである。
ところが、「幻の如き存在」というのは、存在あるいは非存在のあり方ではなく、そのように認識する人の判断である。すなわち、中観の見解を得た人によって、あるいは聖者の三昧知の中で諸法がこのように理解される理解のされ方、捉えられ方である。
昨日挙げた『三つの捉え方」というのが、まさに、存在・非存在の様相ではなく、それを存在論的前提としながら、それがそれぞれの段階の人にとってどのように捉えられるかという問題になっている。
この区別を付けておくことは、中観派の不共の勝法の思想における幻の如き存在の位置づけと評価を考える上で、欠くことのできない観点となる。しかも、同じ認識主体との関連で二諦が設定されるツォンカパの後期の二諦説とも、似ているところと異なったところがある。幻の如き存在という表現は後期に至るまでずっと用いられ続け、たとえば『ラムリム小論』でも一節を充てて論じられている。
同じような思想を巡って、様々な表現をしているツォンカパの中観思想だが、それらが似ているだけに、その微妙な違いを明確に意識することは是非とも必要なことだと思う。
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