2014年7月13日日曜日

帰謬派にも主張はある?

 一部の人たちは、ツォンカパの思想の根本的な動機の一つに、帰謬派にも積極的な主張があるということを主張することがあると考えている。

 これは、「正しい見解」(正確にはlta ba「見解」としか言わない)と、「承認すること」(khas len)との区別に無頓着な理解ではないだろうか。

 前述の「レンダーワへの書簡」でも「道の三種の根本要因」でも、解脱の因の根本としてあげられているのは、出離の心と菩提心と見解とであり、この見解が中観帰謬論証派の中観思想、特に中観派の不共の勝法と呼ばれるものである。この正しい見解がなけば、いくら出離の心を起こし、菩提心を起こしたとしても、それらを支えて一切智者へと向かうことを支えることはできないのである。

 そもそも輪廻の根本は無明であり、無明とは明がないこと、すなわた無知なことである。闇に光が現れることで闇が消えてなくなるように、無明を滅ぼすためには智慧が必要である。智慧が現れることで無明は消えてなくなる。そして智慧とは真実についての正しい理解の究極のものである。真実とは仏教においては空性以外にはない。そこで空性について、そしてそれと不可分のものである縁起についての正しい見解を持つことが、無明を滅ぼす必要不可欠の条件となる。

 しかし、「承認」という言葉はそのような正しい見解について用いられることはない。これは、言説に世界における言説的行為(つまり、言葉を用いて話をしたり考えたりする日常の行為)について、それを実体的に執着することなく、その言説の世界における因果関係が成立することを「承認」することに他ならない。これはもちろん、縁起を正しく評価することであり、そのことが正しい見解の一部を構成するのではあるが、要するに言説の世界が縁起していることを「承認」する必要があるということであり、これを「承認」せず、言説の世界を否定することによって勝義に達するという見解を否定するために言っていることである。

 確かに帰謬派は言説の世界を「承認」するが、そのことが「積極的な主張がある」という意味でないことは、以上で明らかであろう。

ツォンカパが聖文殊の教えをレンダーワに書き送った書簡(前半)

 次の日と書いたが、『聖文殊の教えのレンダーワへの書簡』の翻訳がなかなか進まない。たぶん永遠に終わらない気がしてきた。分からないところが多すぎる。テキストにも問題がありそうである。いくつかの版を見たが、文字は同じであった。口語的な表現らしきものも多い。もっと丁寧にゲシェに教えてもらう必要があるだろうが、とりあえず、間違っていることを承知で、半分くらいまで文字化したので、それを掲載しておく。雰囲気は伝わると思う。

ジェ・ツォンカパに聖文殊が教えられたことの中から、結論のみを要約して、ご恩の大きい師匠であるレンダーワに書簡にして差し上げたもの


 〔聖文殊との対話の中で〕生じた、信頼できる事柄(yid ches kyi gnas)と考えられることには、信頼できる印がたくさんあるけれども、〔ここに〕書き記す余裕はないので、要約して記すならば、私に、〔何かを〕判断するような見解〔全て〕を離れる〔ことが〕帰謬派の教義であると修習していたけれども、〔聖文殊に〕よくお伺いをたてたところ、「まだ理解できていない理由がある」とおっしゃった。

 そこで、長い間、議論と考察を行い、「帰謬派の哲学には、このようなことが必要となる。あなたの心には、このようなことしかない」などたくさんのことを〔聖文殊は〕おっしゃった〔が、それら〕は、聖父子(ナーガールジュナとアーリヤデーヴァ)のテキストと一致させておっしゃったことであるので、〔私が〕理解できていない〔だけだ〕と知った。

 そこで、〔帰謬派の哲学を〕理解できるようになる方法をお伺いしたところ、教えて下さった〔方法〕を実践したことによって、今は、これまで理解できていなかった縁起の自性を初めて理解でき、大きな確信を得られるようなことが起こったのである。

 それについても、一般的には空である〔ことを理解する〕ことによって有辺(実体的実在論)を退け、〔諸存在が〕現れている〔現れ方を理解する〕ことによって無辺(虚無論)を退けるというこのことは、ローカーヤタ(順世外道)に至るまで共通した〔考え方〕である。

 それに対して帰謬派の〔不共の〕勝法では、〔諸存在が〕現れること〔を理解すること〕によって有辺を退け、〔諸存在が〕空である〔と理解する〕ことによって無辺を退ける。また空〔であるもの〕が因果〔関係にあるもの〕となることを知る必要がある。

 そして、輪廻〔から〕涅槃〔に至るまで〕の諸存在は、因に依って果が生じ、〔その因果関係が〕整合性を維持していること(mi slu ba'i tshul)を自らの心において承認し、その〔因果関係の整合性〕によって一切の辺(実在論と虚無論)を退けるという空になることなど〔の話〕を無量にあるいは詳細に〔行った〕。

 要約すれば、考察されない、あるいは相手の立場で、あるいは言説として因果〔関係〕は欺くことがないこと、考察したならば、あるいは自説においては、あるいは〔ものの〕実相(gnas lugs)としては、欺くとも欺かないとも設定することができないというような〔見解は正しく〕ない。

 考察されないということの意味は、欺かないこと(テキストはslu baだが、bka' 'bum thor buにおけるレンダーワ宛て書簡ではmi slu baになっている)であると理解し、考察したならば「これである」と〔確定的な判断は〕得られないことから、今度は、因果〔関係〕を理解して、その二つ(=縁起と空)が同一の基体に適用されることを考えて、縁起と空が分けられないと言うのでもない。原因によって結果が生じることが欺くことがないと理解する、その同じ知によって、他の知に依ることなく意識を向けられた〔対象〕が消滅するという空もまた成立すること、そして因果〔関係〕が欺かないという論証因だけで、他の論証因に依ることなく有辺〔や無辺〕などを離れた空が成立することから、因果〔関係〕が欺かないことについて根底からの確信が引き出され、他ならぬそのことによって意識の向けられた対象全てが消滅し、何も思い込むことのない〔覚り〕もまた得られのである。

 以前にも、そのような言葉は後に〔根底からの理解が得られたとき〕と変わらずにあったけれども、確信はずっと引き出されなかった。我々の考えについて私が理解していないならば、私と先生(レンダーワ)は違いがないので、先生もお考えにならないと思って〔この手紙を〕差し上げたところ、我々には考えがあるけれども、詳細は何も知らないとおっしゃった。

 それ故、〔哲学的〕見解(ものの見方)の究極的な本質はこうであり、行のデリケートな本質や、実践の道になるかならないか、顕密の非常に難解な本質などについて、以前には疑問があり、考察して〔も、理解〕が得られなかったことが、正しい論理の力によって論証されることを知ったことにより、疑問の匂いさえも無くなって、信頼が生じたのである。

 〔聖文殊は〕この〔帰謬派の〕学説に関して現在〔行われている〕講義と聴聞、修習と実践という二つ〔のうち〕講義と聴聞を重要視なさり〔次のように説かれた〕。一般に法門はたくさんあるけれども、解脱の因になるのは三つである。すなわち、出離の心と菩提心と見解とである。現在、この三つについて〔自分の身に付いた〕経験が生じたものはおろか、この三つについての正しく理解するものも稀である。

 この〔三つの〕うち、最初の二つを理解することでは、解脱の種を植えることはできず、最後〔の見解〕の力が強いので〔それによって解脱の種を〕植えることができる。

 それについても非常に努力して、そのイメージに心を向けて、〔それに〕習熟した力によって心が変化したら、努力を伴った経験が生じるので、それによって解脱の種を植えることはできるけれども、道の終端には達しない。

 輪廻における安楽と財産や衆生のことを心に思っているだけで、出離の心と菩提心が常に湧き起こる経験が生じたならば、〔それは〕資糧〔を積む〕低い段階であると考えるのである。

 輪廻〔において〕体験すること〔デメリット〕と、解脱のメリットを理解する正念正知(dran shes)を常に行って、〔輪廻におけるデメリットの〕体験に心が向かわせず輪廻の禍患を断ち切り(bcar -> bcad)、解脱のメリットに心を持して、そのイメージに習熟して出離の心の経験を生じさせずに、布施、戒律、忍耐、精進、禅定という善根に習熟しても、解脱の因には決してならないので、解脱を求める人は最初に、深遠な教えであると言われるもの全てを措いて、出離の心の考察を修習すべきである。

 大乗を実現する人は、自利に心を向けるという過失と利他のメリットを今すぐに正念正知を行い、菩提心の経験を生じるためのイメージトレーニングを行わないならば、他のことを何をしても〔覚りへの〕道〔を行くこと〕にはなりえない。なぜならば、もしそうでないならば、諸々の善根が自利に左右されて、劣った覚りの因にしかならないからである。たとえば、出離の心を正念正知しイメージトレーニングをしないならば、全ての善は〔輪廻の〕デメリットに左右されて、ただ輪廻の因となるのと同様である。

 したがって、密教などについての深遠だと言われている教えを捨て措いて、最初に出離の心と菩提心の経験を生じることを願うべきである。

 それが生じたならば、それからの全ての善は、解脱と一切智者の因に自然となっていくので、したがって、この〔出離の心と菩提心〕を修習することは価値がない(rin mi chog pa)とすることは、道の本質を全く知らないものである、と〔聖文殊は〕おっしゃっている。

2014年7月6日日曜日

聖文殊師利の道の要諦について聖レンダーワに差し上げた書簡 | ツォンカパ

rje btsun 'jam dbyangs kyi lam gyi gnad rje red mda' ba la shog dril du phul ba bzhugs so //

 書かれた時期は分からないが、ツォンカパ全集のPha巻に含まれている数フォーリオの著作。挨拶も抜きに本文が始まり、コロフォンは別人が書いている。信頼できるのかどうか、微妙。ダライラマ5世の聴聞録を確認した方がいいかもしれないが、ここでは一応、新作として扱う。

 文殊との会話、特に文殊のおっしゃったことが一番豊富に残っている。その話の中心は『道の三つの根本要素lam rtso bo rnam gsum』と被っている。ただ、文殊が教えているので、人間が書いた『三要点』よりも分かりづらい。

 内容が豊富なだけに、中観派の不共の勝法のみに焦点を合わせているわけではない。『三要点』の見解に当たる部分が、この書簡では最初に序論のように述べられている。後は実践的な話が多いのが特徴。

 今日は突然思い立って、ゴマン・ハウスでゲン・ゲルクに読んでもらったが、思いツタのが昼前なのでほとんど予習なし。最初の序論的な部分のみしか読んでいなかった。そこは分かったがその後からはほとんど聞き取れなかった。帰って読み直してみたら大分分かったので、やはり予習をして出ていくのが大事である。

 『三要点』は出離の心と菩提心と見解であり、さらにそこに奢摩他と毘鉢舎那との関係が関係して内容は複雑である。続きは明日。

2013年6月3日月曜日

幻の比喩が比喩である所以


 『菩提道次第小論』では省略されているが、『大論』では幻ないしは鏡像の比喩が、事物の無自性なることとどのような点で等しく、どこで異なっているかについての議論がなされている。

それゆえ、鏡像に顔〔の実体〕がない(gzugs bsnyan byad bzhin gyis stong pa)と理解することによって、〔その鏡像が〕本物の顔であると執着することはなくても、鏡像が本当に存在すると執着する〔ことはあるが、そこに〕何の矛盾があろうか。この点についても、言葉を学んでいない(brda la ma byang ba)幼児たちが、顔の鏡像を見たとき、その〔鏡像〕に対して戯れたりするので、かれらは〔その鏡像が〕本物の顔であると執着しているのであるが、言葉を学んだ年長者たちは、それら〔鏡像〕は〔本物の〕顔ではなく、〔本物の〕顔としては空であると確信していても、顔として現れている鏡像それ自身が、それ自体で存在していると執着するものは、真実執着〔である無明〕である。それはまた〔自らの〕心にあると、経験によって成立する。 
そうではあるが、どうして〔鏡像や幻が〕無自性の喩例として適当であるのかというと、現れているもの自体に関して空である(gang du snang ba de'i ngo bos stong pa)ので、現れているものの自性がないこと(gang du snang ba de'i rang bzhin med pa)が直接知覚によって成立する。それゆえ他ならぬその〔鏡像や幻〕を喩例にするのである。 
現れているものの自性に関して空であるというそのことが、芽などにおいて量によって成立するならば、芽の自性がないことが理解されるのであって、〔そのことは〕鏡像など〔に現れている顔に実体がないこと〕とは別である。 
このことは、「これらの壺などは真実なものとしては存在せず、世間で広く承認されたもの('jig rten rab tu grags pa)として存在しいているのと同様」(『入中論』IV, 113ab)といって、実在論者に対して壺などを無自性の喩例として挙げていることも、鏡像などと同様、一面的な空(nye tshe ba'i stong pa)〔の喩例として挙げた〕のであって、それら〔壺など〕の自性が存在しない〔という、限定なしの空の喩例として挙げた〕わけではない。なぜならば、前述したように、〔壺と同様〕車など〔の世間で広く承認されたもの〕に自性が存在しないことについての、多くの論証をお説きになっているからである。 
同様に幻においても、観客の一部のものは〔幻が〕本当の馬や象などであると執着し〔ているものを〕幻術師が馬や象が偽りのものであると知っているのも一面的な空である。 
夢において知覚する器世間・情世間の事物についても、目が覚めたときにはそれらが現れている通りのものではない(ji ltar snang ba des stong pa)偽りのものであると把握する場合と、ふたたび眠りについたときに、同じ様に〔それらが偽りのものであると〕把握する場合のいずれにおいても、夢〔に〕男女として現れたものは、他の〔現実の〕男女ではないと把握してはいるが、夢〔自身〕が無自性であると理解しているわけではない。〔それは〕たとえば、鏡像などが〔本物の〕顔ではないと確信〔していても、鏡像が空であると理解しているわけではない〕のと同じである。 
前に「幻や蜃気楼などにおいて虚構されたものは、世間の観点からも存在するものではない」(『入中論』VI, 26cd)と引用したように、蜃気楼や幻、夢において、水、馬・象、男女などが存在していると把握されるが、それらは、自己満足的な(rang dga' ba)言説の量によって否定排除される(gnod pa)ので、彼ら〔蜃気楼や幻、夢を見る人々〕が〔あると〕思っているような実物は存在しないと知っても、それは法が無自性であると理解している見方(lta ba)ではない。


 ツォンカパの主張は単純である。幻や鏡像に現れている諸事物は、現れている通りの実体は存在しない。そのことは通常の言説の量でも理解されていることであるが、まさにそれ故に、それらは、諸事物に、その実体、すなわち自性がないことの比喩となるのである。ただし、その場合、幻や鏡像自体が無自性であることが理解されているというわけではない。比喩は比喩に過ぎず、それを真実の理解そのままであると考えてはいけない、ということである。

 「一面的な空」というのは、例えば幻術師は自分が作り出した幻に実体がないことは知っているが、幻それ自体に自性がないことは理解していないからである。空の意味を半分しか理解していないのではなく、比喩的な意味での、不十分な空の理解に過ぎないのである。十全な空とは、そのもの自体の自性が存在しないことである。幻術師は、自分の作り出した幻の象が本物の象でないことを知っているだけであって、あらゆる存在に妥当する、そのものそれ自身の自性の有無を知っているわけではない。

 それにも関わらず、ツォンカパは繰り返し幻の比喩を用いる。前にも書いたように、この幻の比喩は、縁起の現れとそれが無自性空であることとが同時に成り立っていると主張する中観派の不共の勝法と等価な思想であり、同じ不共の勝法と等価な思想のうちでも、後期のツォンカパの中観哲学の中で、唯一生き残っている表現方法である。そのことは、これが、それを理解するものの知のあり方によって左右されないことを意味している。それを把握する知とは関係しない、物事の真の存在の仕方を言い表しているのである。幻の比喩も、それを把握している人の知にどのように理解されているかではなく、幻自身のあり方として、現れつつ実体がない、という複合した構造が意図されているのであり、それこそが中観派の不共の勝法の主張内容に他ならない。

 実際にはこの幻術師の比喩は、最後期の『入中論釈・密意解明』においては、発展的に自立派の主張を述べる箇所に使われるようになり、同書においては、「幻の如し」という表現は極端に減っていく。最後期の二諦論では、世俗諦と勝義諦は、同時に成立する補完的な存在論的構造というよりも、それを見る側の知のレベルによって段階分けされ、同一基体性の強調は減っていく。

 比喩は比喩であり、現実のあり方をそのまま表現しているわけではない。その意味で制約のある内容になっている。しかし、そのことを念頭に置くならば、真実のあり方へのイメージを喚起するよいモデルとなっているということができるのであろう。

2013年5月26日日曜日

幻の比喩の解釈

 「幻の如き現れ」という表現はツォンカパの中観関係テキストのみならず、全テキストに初期から後期に至るまで頻出する。それだけツォンカパにとってお気に入りの概念だったと言うことが出来るであろう。

 前回は、特に後期の『菩提道次第小論』に節を立てて論じられる部分を訳出した。ここでは、その意味を考えてみることにしたい。

 今回和訳したところは実は若干の精粗の違いや言葉の異同はあるにせよ、ほとんど、最初期の著作『菩提道次第大論』と重複している。ここの部分は初期から後期に至るまで同じ思想が持続していることを示している。

 以下に示すように、この幻の比喩の根底には中観派の不共の勝法と同じ存在論が前提とされ、またそのことを示すための別の説明となっている。それが、表だって中観派の不共の勝法に言及することのなくなった後期においても、ほぼそのまま受け継がれていると言うことは、存在論的には、同じ思想がずっと根底にあることを示しているであろう。

 前回の私訳を通読すれば、そこで同じ内容が何度も繰り返し語られていることに気付くであろう。幻や鏡像を喩例とし、人や法について、

  1. 言説知に現れていること
  2. 正理知によって自性の存在が否定され、それらが自性によって成立しているものに関して空であること
この二つの事態が同時に成り立っていると繰り返し主張する。言葉を変えてさえいない。同じ言葉を何度も繰り返している。試みに、1と2のそれぞれに分類できる表現をピックアップしてみよう。

 まず、1の「現れ=縁起」と同じことを述べているのは、

  • あるものとして現れること
  • 人として現れること
  • 業を積むもの、見られるもの・聞かれるものなどの縁起している因果関係にある全てのもの
  • 人などが言説知に疑いようもなく現れる
  • 現れが立ち上がる
  • 疑いようもなく現れている人についての諸々の言説
  • 人が「業を積むもの」「果報を感受するもの」として措定される縁起の側面
  • 業を積むもの、果報を感受するもの、前世の業・煩悩によって転生すること

 一方、2の空の側面については次のような表現が用いられている。

  • 現れたものが存在に関して空である
  • それ自体で成立している自性に関して元から空である
  • 自らの特質によって成立している自性は微塵もない
  • 人が、それ自体で成立している自性に関して空であると正理知で確信する
  • 諸法に、それ自体で成立している〔自性〕があるかないか考察する正理によって繰り返し考察したのち、そのような自性は存在しないという強固な確信が生じる
  • 人に、自性によって成立しているものは少しもないという確信を強固なものとする。
  • 人についても、自性によって成立しているものは塵ほども存在しない
などと言われる。ここでは、空であることとと、正理知によってそのことの確信を獲得するという二つのことを区別せずに挙げた。

 いずれにせよ、この縁起の側面と空の側面は、常に対になって述べられ、しかも「空であるけれども、現れる」あるいは「現れることと空であることの二つが同時に成り立つ」という文脈で用いられている。これは、中観派の不共の勝法と同じ構図である。

 実際、『菩提道次第大論』で「人が幻の如く現れる」という科段のもとに、この『菩提道次第小論』よりもやや詳しい内容が見られる。また、ここに訳出しなかった「幻の如くに現れる誤った〔現れ〕方」の中に、
前に説明した否定対象の境界線を正しく把握しないままに対象について正理によって考察して分析するとき、その対象が存在しないという〔考え〕が最初に生じ、それから考察をしている人についても、それと同様に思われて、〔対象が〕存在しないと確定する人もまた存在しないので、何についても「これである、これでない」という確定をする余地がなくなってしまって、現れが曖昧なものとなった〔そのような〕現れが立ち上るのも、自性の有無と単なる有無を区別しないことによって生じたものであり、したがって、そのような空性も縁起を破壊する空性であり、それゆえ、それを悟ることによって導き出される〔霧のように〕曖昧模糊として立ち現れる現れもまた、幻のごとく〔現れること〕の意味では決してないのである。
とあるように、「幻の如き現れ方」の誤った理解も、結局のところは自性による有無と単なる有無という四つの様態の違いを区別していないことに帰着する、とツォンカパは言う。この四つの様態は既に述べたように、ツォンカパ中観哲学の最初の主著である『菩提道次第大論』毘鉢舎那章の中心思想である「中観派の不共の勝法」の一パターンである。それがこのように最後期の『菩提道次第小論』にも言及されているということは、たとえ「中観派の不共の勝法」という呼称が用いられなくなったとしても、その根本思想は後期に至るまで受け継がれていると言えるであろう。

 もちろん、単純に「中観派の不共の勝法」の思想が後期にまで持続したと言えるわけではない。この『菩提道次第小論』の幻の如き現れの箇所は、人無我の詳論の中に含まれるが、その人法二無我の議論そのものが、『菩提道次第大論』の人法二無我の議論からの採録になっており、それに先行する『大論』の否定対象の議論と自立論証批判とは『小論』ではなくなっているが、否定対象の議論が「中観派の不共の勝法」を詳述する箇所であり、自立論証批判と人無我の議論は、その応用にすぎないからである。

 さらに二諦に着目すれば、『大論』と『小論』の違いが認められ、その二諦の詳細な検討こそが後期思想の特徴とも言えるのである。

 いずれにせよ、ツォンカパの中観思想が初期と後期で変わったのかどうか、ということはそれほど重要な問題ではなく、また解決の付く問題とも言えない。むしろ、それぞれの著作での特徴的な思想構造を問題として、その著作そのものをよりよく理解することができるようになれば、それで十分である。そして価値判断などを持ち込まずに、虚心にツォンカパの言葉に耳を傾け、それを再現できればと思うのである。

2013年5月18日土曜日

幻のごとき存在

 ツォンカパの中観関係のテキストでは、全時期に渡って、sgyu ma lta bu「幻のごとき〔存在〕」という表現、ないしはその亜種(sgyu ma bzhin du, sgyu ma dang 'dra ba, sgyu ma'i dpe, sgyu ma'i don etc.)がしばしば用いられる。

 中観関係のみならず、他の顕教のテキストや密教関係の著作にも出てくるが、この場合は、ツォンカパが究竟次第の階梯の中で重視する sgyu lus (幻身) との関連もあるのかもしれない。

 「幻」の部分は同じであるが、著作によって、その主語になるもの、および「の如し」の部分の種類に違いがある。たとえば『菩提道次第大論・小論』では lta bu「如し」が多いが、『善説心髄』ではそれはなく、それ以外の表現がいくつか用いられる。『入中論釈・密意解明』では、そもそも言及も限られる(が数例は見られる)。いずれにせよ、注釈を除く中観関係の大著は『菩提道次第大論』『善説心髄』『菩提道次第小論』であるので、それらにおける用例を細かく見ていく必要がある。が、ここでは、サチェー(見出し)にも取り上げられている『菩提道次第小論』の内容を示すことにしよう。

 とりあえず、今回は必要箇所の和訳(だいたい、当該科段の2/3程度)に当たる。以下、「諸法が幻の如くに立ち現れる」ことを説明する部分の前後の科段を示す。ページ数はショル版のものでおおよその分量が分かるであろう。科段の番号は、『西蔵仏教基本文献』第1巻、東洋文庫(1996)、p.32による。

S1: 人無我をどのように確定するか
 T1: 〔否定対象たる〕人を特定する (162a6)
 T2: 人に自性がないと確定する
  U1: 私は無自性であると確定する (163b2)
  U2: 私に属するものは無自性であると確定する (165b4)
  U3: 以上に依って人が幻の如くに立ち現れる仕方を示す
   V1: 〔経典に諸法が〕幻の如しと説かれた意味を示す
    W1: 幻の如き立ち現れの正しいあり方(166a4)
    W2: 幻の如くき立ち現れの似て非なるあり方  (168a2)
   V2: どのような方法によって〔諸法が〕幻の如くに立ち現れるようになるか (169b2)
S2: 法無我をどのように確定するか (170b2)

この科段でも、以下の和訳でも「人」という語が出てくるが、これは現代日本語の「人」の意味ではなく、仏教用語で、言わば「人格的な主体」と考えられているものであり、「私」という言葉を使うときに漠然と考えられている存在者、および、同様の衆生などの行為の主体となるような人格的存在者を指している。このような存在が「無我」すなわち無自性であるというのは、最初期からの仏教の根本的テーゼである。
 この部分の訳を作っていてしばらく時間がかかってしまった。ひとまず今回は和訳を挙げ、そこに説かれている内容についての議論は次回に回すことにしたい。現代語訳には他に

  1. ツルティム・ケサン、高田順仁訳『『菩提道次第論・中篇』 : 観の章 : 和訳』(ツォンカパ中観哲学の研究, 1)、文栄堂(1996), pp.49-63.
  2. ツルティム・ケサン、藤仲孝司訳『悟りへの階梯:チベット仏教の原典『菩提道次第論』』、星雲社(2005), pp.276-281.
  3. Jeffrey Hopkins, Tsong-kha-pa's final exposition of wisdom, Ithaca N.Y., Snow Lion Publications (2008). pp.75-85


がある。以下に訳出した箇所の多くは『菩提道次第大論』でもほぼ同じように述べられている。
 第一(V1W1)「幻の如き立ち現れの正しいあり方(sgyu ma bzhin du 'char tshul phyin ci ma log pa)」
 (中略)
『仏母経(般若経)』にも、色から一切智に至るまでの一切法は幻や夢の如しと説かれている。
 そのように説かれている「幻のごとし」の意味は二つある。すなわち、勝義諦が幻の如きものであるとおっしゃったように、唯有(yod tsam)として成立しているけれども、諦であることが否定されたものを指している場合と、空でありながら現れる幻の如き現れの二つ〔である。〕ここでは、そのうちの後者〔の意味〕である。
 この〔幻のごとき存在〕には、あるものとして現れることと、〔その現れたものが〕現れた通りの実体の存在に関して空であることの二つが必要なのであって、ウサギの角や不妊女性の子どものように現れることさえもなかったり、あるいは現れても現れた通りの実体(don)が存在することに関して空であることが意識されない場合でも(mi 'char na yang)、幻の如き現れの意味が意識されることはないのである。
 それゆえ、他の〔全ての〕法が幻の比喩と等しいことを理解させる方法(shes par byed tshul)は、次のようになる。幻術師が作り出した幻が、馬や象に関して元から空であるけれども馬や象として現れることは疑いようもなく映じてくるの(bsnyon mi nus par 'char ba)と同様に、人などの諸法もまた、対象の上では、それ自体で成立している自性に関して元から空であるけれども〔人〕として現れることは疑いようもなく理解されるのである。
 同様に、神や人間などとして現れるものは人であり、色声などとして現れるものが法であると措定するので、人と法には、自らの特質によって成立している自性は微塵もないけれども、業を積むものなど〔の人〕や、見られるもの・聞こえるものなど〔の法、すなわち〕縁起している因果関係にあるもの全てのもの(rten 'brel gyi bya byed thams cad)もまた妥当である。
 因果関係にある全てのものが妥当であるので、虚無的な空とはならない。また、諸法が元からずっとそのように〔それ自体で成立する自性に関して〕空であることを〔あるがままに〕空であると知るだけであるので、知によって作られた空でもない。所知一切がそのようなものであると主張するので、部分的な空でもない。それゆえ、その〔空〕を修習することによって、真実把握の執着全ての対治ともなるのである。
 この深甚なる意味は、いかなる知の対象にもならないわけではなく、正しい見解によって〔本来的な空を〕確定し、その正しい意味を修習する修習〔の知〕によって対象とすることができるので、修行の過程において実践することができないとか、覚られるべきもの(rig rgyu)、理解されるべきものが何もないような空でもない。
 (中略) 
 第二(V2: thabs gang la brten nas sgyu ma lta bur 'char tshul)、それでは、どのようにしたら、幻の意味が不顛倒に理解されるようになるのか、と思うならば、〔答えよう〕。たとえば、幻の馬や象が眼識に見えることと、現れている通りの馬や象は存在しないと意識によって確信すること、〔この二つの知〕に依拠して、馬や象として現れているものが、幻である、あるいは虚偽なる現れであるという確信が生じるが、それと同様に、人などが言説知に疑いようもなく現れる〔が、それと同時に〕、その同じ〔人〕が、それ自体で成立する自性に関して空であると正理知で確信する、〔その〕二つ〔の知〕に依拠して、人は幻であり、あるいは虚偽なる現れであるという確信が生じるのである。
 それ故に、三昧に入ったとき、特質を把握する〔知〕の認識対象は微塵も存在しないという虚空の如き空性を修習できるようになったならば、その〔三昧〕から出て対象の現れが立ち上る(yul snang 'char ba)のを見たとき、後得〔智〕において幻の如き空が立ち現れる('char)のである。
 それと同様に、諸法にそれ自体で成立している〔自性〕があるかないかを考察する正理によって繰り返し考察したのち、〔そのような〕自性は存在しないという強固な確信を生じたあと、現れが立ち上ってるのを見たならば、〔その現れは〕幻の如きものとして立ち現れているのであって、幻の如き空を、〔それとは〕別に確定する方法はないのである。
 (中略)
 その確信を求める仕方を分かりやすく述べるならば、前に説明したように、正理の否定対象一般を正しく〔意識に〕立ち現れさせ、自心の無明によって増益された自性〔がどのようなものであるか〕を正確に特定できなければならない。それから、そのような自性が存在するならば、同一であるか別異であるかのいずれかでなければならず、そのいずれを認めても、それに対する反対論証が生じることについてしっかりと考えて、反対論証が見られるという確信を引き出さなければならない。最後に、人に自性によって成立しているものは少しもないという確信を堅固なものとしなければならない。空の側面については、以上のように繰り返し学ぶべきである。
 それから、疑いようもなく現われるている人〔について〕の諸々の言説を意識の対象にもたらし、その〔人〕が「業を積むもの」あるいは「〔その〕果報を感受するもの」であると措定されるという縁起の側面を意識を向けなければならない。そして、自性のないものにおいて縁起が妥当することについての確信を得なければならない。
 その〔空の側面と縁起の側面の〕二者が矛盾すると思われるとき、鏡像などを喩例として〔それらが〕矛盾しないことについて考えなければならない。すなわち、顔の鏡像が、目や耳などとして現れている〔その実際の目や耳など〕は存在していないけれども、顔や鏡に依拠して〔その鏡像が〕生じることと、それらの縁の1つでも欠けたとき〔鏡像も〕消滅してしまうという二つのことが、疑問の余地なく両立している(gzhi mthun du 'du ba)。それと同様に、人についても、自性によって成立しているものは塵ほども存在しないけれども、〔そのことと、〕業を積むもの、果報を感受するもの、前世の業・煩悩になどよって転生することとは矛盾していないと学ぶべきである。以上のことは、その〔業を積む人など〕と同様の全ての主題について理解すべきことである。

 
 

2013年5月6日月曜日

事物に二つの種類がある

 勝義においては存在せず、世俗においては存在するという二面性は、自性によって存在するものは否定するが、言説において存在するものは否定しない、と言い換えることもできるが、このことをツォンカパは、また別の表現で説明している。

 すなわち、「事物」(この場合、一切法ではなく、生じ滅する有為法のみを考える。)には、

  1. 自性によって成立している事物、それ自体で存在している事物
  2. 何らかの効果を生み出す能力のあるものとしての事物
という二つの意味・用法があり、否定されるの1の、それ自体で存在している事物であり、2の、効果を生み出す能力のある事物は否定されない。

 前者が勝義においては存在しないと言われる事物であり、後者は世俗のおいて存在しているとされる事物である。これを事物という言葉の二義に関連させて説明しているのである。

 効果を生み出すことができるということは、「縁起している」ということである。自性によって成立している事物がない、ということは「無自性」、あるいは「自性に関して空である」ということである。これらが矛盾することなく、それどころか、相補う両面として同時に設立している、というのが、中観派の不共の勝法の内容である。

 こうして、ツォンカパの文章は様々な概念や表現、説き方をしながら、緊密に一つの存在論的原理へと繋がっていくのである。