ジェ・ツォンカパに聖文殊が教えられたことの中から、結論のみを要約して、ご恩の大きい師匠であるレンダーワに書簡にして差し上げたもの
〔聖文殊との対話の中で〕生じた、信頼できる事柄(yid ches kyi gnas)と考えられることには、信頼できる印がたくさんあるけれども、〔ここに〕書き記す余裕はないので、要約して記すならば、私に、〔何かを〕判断するような見解〔全て〕を離れる〔ことが〕帰謬派の教義であると修習していたけれども、〔聖文殊に〕よくお伺いをたてたところ、「まだ理解できていない理由がある」とおっしゃった。
そこで、長い間、議論と考察を行い、「帰謬派の哲学には、このようなことが必要となる。あなたの心には、このようなことしかない」などたくさんのことを〔聖文殊は〕おっしゃった〔が、それら〕は、聖父子(ナーガールジュナとアーリヤデーヴァ)のテキストと一致させておっしゃったことであるので、〔私が〕理解できていない〔だけだ〕と知った。
そこで、〔帰謬派の哲学を〕理解できるようになる方法をお伺いしたところ、教えて下さった〔方法〕を実践したことによって、今は、これまで理解できていなかった縁起の自性を初めて理解でき、大きな確信を得られるようなことが起こったのである。
それについても、一般的には空である〔ことを理解する〕ことによって有辺(実体的実在論)を退け、〔諸存在が〕現れている〔現れ方を理解する〕ことによって無辺(虚無論)を退けるというこのことは、ローカーヤタ(順世外道)に至るまで共通した〔考え方〕である。
それに対して帰謬派の〔不共の〕勝法では、〔諸存在が〕現れること〔を理解すること〕によって有辺を退け、〔諸存在が〕空である〔と理解する〕ことによって無辺を退ける。また空〔であるもの〕が因果〔関係にあるもの〕となることを知る必要がある。
そして、輪廻〔から〕涅槃〔に至るまで〕の諸存在は、因に依って果が生じ、〔その因果関係が〕整合性を維持していること(mi slu ba'i tshul)を自らの心において承認し、その〔因果関係の整合性〕によって一切の辺(実在論と虚無論)を退けるという空になることなど〔の話〕を無量にあるいは詳細に〔行った〕。
要約すれば、考察されない、あるいは相手の立場で、あるいは言説として因果〔関係〕は欺くことがないこと、考察したならば、あるいは自説においては、あるいは〔ものの〕実相(gnas lugs)としては、欺くとも欺かないとも設定することができないというような〔見解は正しく〕ない。
考察されないということの意味は、欺かないこと(テキストはslu baだが、bka' 'bum thor buにおけるレンダーワ宛て書簡ではmi slu baになっている)であると理解し、考察したならば「これである」と〔確定的な判断は〕得られないことから、今度は、因果〔関係〕を理解して、その二つ(=縁起と空)が同一の基体に適用されることを考えて、縁起と空が分けられないと言うのでもない。原因によって結果が生じることが欺くことがないと理解する、その同じ知によって、他の知に依ることなく意識を向けられた〔対象〕が消滅するという空もまた成立すること、そして因果〔関係〕が欺かないという論証因だけで、他の論証因に依ることなく有辺〔や無辺〕などを離れた空が成立することから、因果〔関係〕が欺かないことについて根底からの確信が引き出され、他ならぬそのことによって意識の向けられた対象全てが消滅し、何も思い込むことのない〔覚り〕もまた得られのである。
以前にも、そのような言葉は後に〔根底からの理解が得られたとき〕と変わらずにあったけれども、確信はずっと引き出されなかった。我々の考えについて私が理解していないならば、私と先生(レンダーワ)は違いがないので、先生もお考えにならないと思って〔この手紙を〕差し上げたところ、我々には考えがあるけれども、詳細は何も知らないとおっしゃった。
それ故、〔哲学的〕見解(ものの見方)の究極的な本質はこうであり、行のデリケートな本質や、実践の道になるかならないか、顕密の非常に難解な本質などについて、以前には疑問があり、考察して〔も、理解〕が得られなかったことが、正しい論理の力によって論証されることを知ったことにより、疑問の匂いさえも無くなって、信頼が生じたのである。
〔聖文殊は〕この〔帰謬派の〕学説に関して現在〔行われている〕講義と聴聞、修習と実践という二つ〔のうち〕講義と聴聞を重要視なさり〔次のように説かれた〕。一般に法門はたくさんあるけれども、解脱の因になるのは三つである。すなわち、出離の心と菩提心と見解とである。現在、この三つについて〔自分の身に付いた〕経験が生じたものはおろか、この三つについての正しく理解するものも稀である。
この〔三つの〕うち、最初の二つを理解することでは、解脱の種を植えることはできず、最後〔の見解〕の力が強いので〔それによって解脱の種を〕植えることができる。
それについても非常に努力して、そのイメージに心を向けて、〔それに〕習熟した力によって心が変化したら、努力を伴った経験が生じるので、それによって解脱の種を植えることはできるけれども、道の終端には達しない。
輪廻における安楽と財産や衆生のことを心に思っているだけで、出離の心と菩提心が常に湧き起こる経験が生じたならば、〔それは〕資糧〔を積む〕低い段階であると考えるのである。
輪廻〔において〕体験すること〔デメリット〕と、解脱のメリットを理解する正念正知(dran shes)を常に行って、〔輪廻におけるデメリットの〕体験に心が向かわせず輪廻の禍患を断ち切り(bcar -> bcad)、解脱のメリットに心を持して、そのイメージに習熟して出離の心の経験を生じさせずに、布施、戒律、忍耐、精進、禅定という善根に習熟しても、解脱の因には決してならないので、解脱を求める人は最初に、深遠な教えであると言われるもの全てを措いて、出離の心の考察を修習すべきである。
大乗を実現する人は、自利に心を向けるという過失と利他のメリットを今すぐに正念正知を行い、菩提心の経験を生じるためのイメージトレーニングを行わないならば、他のことを何をしても〔覚りへの〕道〔を行くこと〕にはなりえない。なぜならば、もしそうでないならば、諸々の善根が自利に左右されて、劣った覚りの因にしかならないからである。たとえば、出離の心を正念正知しイメージトレーニングをしないならば、全ての善は〔輪廻の〕デメリットに左右されて、ただ輪廻の因となるのと同様である。
したがって、密教などについての深遠だと言われている教えを捨て措いて、最初に出離の心と菩提心の経験を生じることを願うべきである。
それが生じたならば、それからの全ての善は、解脱と一切智者の因に自然となっていくので、したがって、この〔出離の心と菩提心〕を修習することは価値がない(rin mi chog pa)とすることは、道の本質を全く知らないものである、と〔聖文殊は〕おっしゃっている。
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