一部の人たちは、ツォンカパの思想の根本的な動機の一つに、帰謬派にも積極的な主張があるということを主張することがあると考えている。
これは、「正しい見解」(正確にはlta ba「見解」としか言わない)と、「承認すること」(khas len)との区別に無頓着な理解ではないだろうか。
前述の「レンダーワへの書簡」でも「道の三種の根本要因」でも、解脱の因の根本としてあげられているのは、出離の心と菩提心と見解とであり、この見解が中観帰謬論証派の中観思想、特に中観派の不共の勝法と呼ばれるものである。この正しい見解がなけば、いくら出離の心を起こし、菩提心を起こしたとしても、それらを支えて一切智者へと向かうことを支えることはできないのである。
そもそも輪廻の根本は無明であり、無明とは明がないこと、すなわた無知なことである。闇に光が現れることで闇が消えてなくなるように、無明を滅ぼすためには智慧が必要である。智慧が現れることで無明は消えてなくなる。そして智慧とは真実についての正しい理解の究極のものである。真実とは仏教においては空性以外にはない。そこで空性について、そしてそれと不可分のものである縁起についての正しい見解を持つことが、無明を滅ぼす必要不可欠の条件となる。
しかし、「承認」という言葉はそのような正しい見解について用いられることはない。これは、言説に世界における言説的行為(つまり、言葉を用いて話をしたり考えたりする日常の行為)について、それを実体的に執着することなく、その言説の世界における因果関係が成立することを「承認」することに他ならない。これはもちろん、縁起を正しく評価することであり、そのことが正しい見解の一部を構成するのではあるが、要するに言説の世界が縁起していることを「承認」する必要があるということであり、これを「承認」せず、言説の世界を否定することによって勝義に達するという見解を否定するために言っていることである。
確かに帰謬派は言説の世界を「承認」するが、そのことが「積極的な主張がある」という意味でないことは、以上で明らかであろう。
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