幻の如き存在というのは、後期に至るまで生き残る中観派の不共の勝法の思想そのものであると思って来た。もちろんその一部をなしていると言えるだろうが、ただ、縁起と空性という分け方をしたとき、その縁起あるいは現れの側面、あるいは、単に存在していると言えるもの、つまり言説有と、幻の如き存在は別のものだった。
『ラムリム・チェンモ』の自立論証批判の箇所に、芽を捉える知に三つの捉え方があると言う。
- 芽に、それ自体で成立している自性があると捉える「真実に存在しているという捉え方」
- 芽はそれ自体で成立しているものではないが、幻の如くに存在していると捉える「偽りで存在しているという捉え方」
- 真偽いずれによっても限定されずに「一般的に存在しているだけという捉え方」
これらは、後期の二諦説が、それを捉える意識と相対的に設定されるのとは必ずしも対応していない。1は後期の世俗諦であり、2は後期の唯世俗であるが、3は言説有ではあっても、二諦の中に位置を占めていない。逆に後期の勝義諦は、この3つの捉え方の中には見られない。
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