2019年3月17日日曜日

『ツォンカパ中観思想の研究』目次

まず目次を挙げておきます。これは大東出版社のサイトでも挙がっているものです。


序 章
 第一節 ツォンカパにおける中観思想
 第二節 中観思想の発展段階
 第三節 ツォンカパの中観思想の展開過程
 第四節 否定対象の特定
 第五節 本書の課題と構成

第一章 中観派の不共の勝法
 はじめに
 第一節 『菩提道次第大論』の構成と「中観派の不共の勝法」の位置付け
 第二節 「中観派の不共の勝法」
 第三節 言説知・正理知・真実執着
 おわりに

第二章 聖文殊の教誡による中観思想の形成過程
 はじめに
 第一節 ツォンカパとラマ・ウマパの関係
 第二節 伝記資料に基づく聖文殊との問答
 第三節 レンダワ宛ての書簡
 第四節 『道の三種の根本要因』
 第五節 『縁起讃』における「中観派の不共の勝法」
 おわりに

第三章 初期中観思想における自立論証批判
 はじめに
 第一節 自立論証批判の位置と構造
 第二節 自立論証批判の論理
 第三節 帰謬論証派にとっての量
 おわりに

第四章 二つの二諦説
 はじめに
 第一節 前期の二諦説
 第二節 後期の二諦説
 おわりに

第五章 『入中論』の二諦説と中観派の不共の勝法
 はじめに
 第一節 『菩提道次第大論』における『入中論』の二諦説
 第二節 後期中観思想における二諦の同一性と別異性
 おわりに

第六章 自性と縁起
 はじめに
 第一節 自性の規定
 第二節 自性と縁起
 第三節 二種類の縁起
 第四節 チャンキャ『学説設定』における三種の縁起
 おわりに

第七章 自らの特質によって成立しているもの
 はじめに
 第一節 自相と自らの特質によって成立しているもの
 第二節 具格助詞kyisの意味
 第三節 唯識思想との関連
 おわりに

第八章 中期中観思想における言語論的転回
 はじめに
 第一節 『善説心髄』中観章の構成
 第二節 帰謬論証派独自の否定対象の特定
 第三節 議論の構造
 第四節 自立論証派による「自らの特質によって成立するもの」の設定方式
 第五節 「考察(vicara)」の意味
 第六節 世間一般の人の言説有の捉え方
 おわりに

第九章 二つの自性
 はじめに
 第一節 『中論』第一五章第二偈の解釈
 第二節 『中論註正理大海』における帰敬偈の解釈
 第三節 『中論註正理大海』の総論における否定対象の解釈
 おわりに

終 章 
 第一節 ツォンカパ中観思想の展開
 第二節 残された課題
文 献 表
後 記

全部で384ページです。これだけを見ていると、何が何やら分からなくなりそうですね。

主題になるのは、第一章の「中観派における不共の勝法」というツォンカパの主張です。これが初期、あるいは中期くらいまでのツォンカパの中観理解の中心にありました。簡単に言ってしまえば、これは「縁起しているものが同時に無自性である」という考え方は、ツォンカパの根本的な立場である中観帰謬論証派のみが主張できる特徴的あるいは優れた教えである、ということです。

これがどのくらいの広範で深い内容を持ったものであるかは、本書が全体として取り組んでいるテーマなので、簡単には言えませんが、逆にこれだけの量の言葉を要する思想だと言ってもいいでしょう。それは追々、わかりやすく説明していこうと思います。

さて、これがツォンカパの有名な『ラムリム・チェンモ(菩提道次第大論)』の根本主張だということに気付いて、詳しく論じたのが、1999年に刊行された『とんぱ』という一般誌のちチベット特集号における「ツォンカパにおける縁起と空の存在論─中観派の不共の勝法について─」という論文でした。その後、その理解を様々な観点から検討することに15年ほどを費やし、さらに本にまとめるために全体を書き直したり書き足したりして刊行するのに5年ほどかかっています。

もうこれだけやれば、自分の理解はこれで限界だろうと思っていましたが、実は、最近3年くらいでも、大学院生の指導をしているうちに、更に理解が深まり、訂正したり書き足したりするところが出てきてしまいました。実際には、どこかの段階で一区切りしないと次に進めませんので、これはここでまとめられてよかったと思っています。

決定版というよりは、途中経過、あるいは一里塚といったところです。ただその先を理解するためにも、ここまでのところを前提にしなければならないので、ツォンカパの中観思想に関心がある方は、是非読んでいただければと思います。

2019年3月13日水曜日

『ツォンカパ中観思想の研究』について

 しばらく放置していたこのブログを再開して、もともとのツォンカパの中観思想について研究の解説を書き溜めていきたいと思います。

 昨年3月に、それまで20年近く書き溜めてきたツォンカパの中観思想に関する論文をまとめて『ツォンカパ中観思想の研究』(大東出版社)という本にまとめました。

 実際には巨大書店以外で店頭で見かけることはないと思いますので、できれば大東出版社のページで様々なオンライン書店へのリンクがありますので、そこからでご購入いただければと思います。


 定価7,000円ですが、残念なことにAmazon.co.jpではマーケットプレイスで倍以上の値段のリストしか出てきません。まだ在庫はありますので、他の書店を探してみてください。

 このブログでは、少しずつ内容紹介をしたり、コメントをしたり、その後気づいたことなどを書き留めていきたいと思います。

2014年12月28日日曜日

言説有の設定(普通の人の捉え方)

 自立派を含む実在論者は「自性(自-相)によって成立しているもの」を承認するが、帰謬派はそれを言説においても認めない、という点に実在論者と帰謬派との違いがあるわけだが、『善説心髄』の説明は少し異なっている。

もちろん、前回見たように、自立派と帰謬派の相違は、言説において自-相によって成立する存在を認めるか認めないかという点にあることには違いはなく、その点は初期から後期に至るまで変わらない。それに対して『善説心髄』の特徴は、「どのように把握するときに、自-相によって成立していると設定されるのか」を問うたことにある。それに対する答えが、命名の基体=根拠を探し求め、それが得られたときに、その対象の存在を措定できる、そのことが「自-相によって成立している」ことの意味であるという診断基準である。帰謬派の立場では、そのような命名の基体=根拠は得られず、したがって、それら対象は「自-相によって成立するもの」ではない。それ故、それらの存在は、ただ名付けられただけの存在であることになる。「名前だけのもの(ming tsam)」あるいは「施設(仮設)されただけもの(btags pa tsam)」と言われるのも、それを指している。

「自-相によって成立しているもの」を勝義においては認めないが言説において認めるのが自立派であり、それを二諦のいずれにおいても認めないのが帰謬派である、という違いが、命名の基体を求めて得られると主張するのが自立派(その他の実在論も同様)、そのような命名の基体を求めても得られないと主張するのが帰謬派という違いへと還元されることになる。

この区別に対してさらにもう一つ別の対比が付け加わる。自立派に対する帰謬派の批判は、哲学的な水準のものである。すなわち、命名の基体が何であるかを探し求め、それが見付かるか見付からないかを問題にするのは、もともと哲学説上の議論であり、哲学に毒されていない普通の人は、そのような問いを立てることはない。自立派に対する帰謬派のもう一つの批判は、この点を指摘することによる。すなわち、言説においての存在は、言葉の意味対象の実体を問うことなく、言説において言葉を使用することによって成り立っている。すなわち、命名の基体、あるいは言葉の意味対象の実体を探し求める問いを問うこと自体が実在論者の思考方法なのであって、普通の人はそのような問いを問うことなく言語活動を円滑に遂行しているのである。これが「考察することなく〔言説において存在を〕設定すること(ma dpyad par 'jog pa)」と言われる。

一般の人の「考察しない」把握の仕方について、ケードゥプジェが『千の要点(stong thun chen mo)』において分かりやすい例を挙げて説明している。

 dper na lhas byin dang 'phrad par 'dod pa zhig gis khang pa gang na bya rog sgra sgrogs pa 'di na lhas byin yod do zhes pa'i ming tsam gyi rjes su 'brangs nas khang pa de'i nang du zhugs na lhas byin dang phrad par nus kyi / 'di'i nang na yod pa'i lhas byin zhes bya ba'i ming de gang la 'jug pa'i gzhi kho rang gi phung po rnams dang rdzas gcig tha dad ji lta bu zhig yod ces sogs su brtags pa na 'di 'dra zhig tu yod ces rnyed nas de dang 'phad dgos na lha byin dang 'phrad pa mi srid par 'gyur te / de ltar btsal na gang du'ang mi rned pa'i phyir ro //(TTCM, zhol, 86b2-4)
 たとえば、デーヴァダッタに会いたいと思う人が、カラスの鳴き声のする家にデーヴァダッタがいるという言葉だけに従ってその家の中に入〔れば〕デーヴァダッタに会うことができけれども、この中にいるデーヴァダッタというその名前の指し示している対象(gang la 'jug pa'i gzhi)は、彼の〔五〕蘊と同一の実在であるのか別の実在であるのか、どのようなものであるのかなどと分析して、このようなものであると見つけて(=認識して)から、その人と会わなければならないとしたら、デーヴァダッタと会うことはできないであろう。なぜならば、そのように探し求めたならば、どこにも〔デーヴァダッタを〕見出すことはできないからである。

このケードゥプジェの説明では、実在論者が目的の人の名前の意味対象の実体を詮索しているのに対し、単に言葉だけに従って行動した人は目的の人に会えるという対比と、探しても名前の意味対象の実体は見出せないということとが両方説かれているが、言葉だけに従った人は、そもそも意味対象の実体を詮索していないので、見出せないというのは、「もし詮索しなければならないとするならば」という仮定の上での仮想的な帰結にすぎない。要するに、普通の人はそのような詮索はしない。ということを強調しているだけである。言い換えれば、そのような詮索は非現実的であるということである。

このことは、またその普通の人が、対象の空性を理解しているわけではないということとも符合している。普通の人も、その対象が「名前だけのもの」「名付けられただけもの」と捉えているわけではない。彼も、デーヴァダッタは対象それ自身においてデーヴァダッタであると考えている。

 de ni phyi nang gi chos rnams tha snyad kyi dbang gis bzhag pa tsam min par rang gi ngo bo'i sgo nas yod par 'dzin pa ste / de yang mchod sbyin la sogs pa'i gang zag la de ltar 'dzin na gang zag gi bdag 'dzin dang mig rna la sogs pa'i chos la de ltar 'dzin na chos kyi bdag 'dzin yin la das bdag gnyis kyang shes par bya'o //(LN, zhol, 68b2-b3)
 それ(=倶生の真実把握 lhan skyes kyi bden 'dzin の捉え方)は、内外の諸法が言説の力よって設定されただけのものではなく、それ自体の方から(rang gi ngo bo'i sgo nas)存在していると捉えることである。それについても、ヤジュニャダッタ(mchod sbyin)などの人(gang zag)をそのように捉えるならば、それは人我執であり、目や耳などの法をそのように捉えるならば、法我執である。これによって〔一般に〕二我についても知るべきである。

この二つの我執は、倶生のものであり、衆生に普遍的に存在しており、それこそが衆生を輪廻に縛りつけているものとである。ただ、実際に中観の論書の中ではそれらが主題的に取り上げられることは少ない。ツォンカパ自身も指摘はするものの、その具体的な分析は少なく、同じような表現が繰り返し用いられるだけである。ここにも見られるように、実際には言説のみのもの、名前だけのもの、名付けられただけのものであるのに、そのように「言説の力よって設定されたものではなく、それ自身の方で成立しているもの」と言及されることが多い。この表現自身は、もちろん、それほど難しいものではなく、全ての存在を言説によって設定された、名付けられただけのものと理解できずに、それ自体でそのように存在していると信憑している。一般の衆生の認識のこの二重構造(名前だけに従って行動し、その実体が何であるかの分析をしないことと、しかし名付けられただけのものであるとは思わずに、それ自体でそれとして存在していると思いなしていること)は、後期の二諦説の中でも、世俗諦と唯世俗の対比の中に組み込まれていく。


 ツォンカパの議論は、自-相によって成立するものを設定するために、言葉の意味対象の実体を特定しなければならないという実在論者の立場に対して、普通の人が言葉だけに従って有効な日常行為を遂行していることを対比させることによって、意味実体に対する考察を行うこと自体を無効な哲学的謬見と規定すると同時に、そのように考察したときに意味実体が存在しないことが「自-相によって成立しているもの」を欠いた空性として設定される、という非常にデリケートな論理の上に成り立っているのである。

2014年12月26日金曜日

帰謬派と自立派の根本的相違

 前回の記事では、ツォンカパが『善説心髄』において、帰謬派にとっての批判対象である「自性(自-相)によって成立するもの」を言語論的な格率によって規定する主張を取り上げた。その議論に入る直前に、なぜその議論が重要であるのかを次のように指摘している。科段としては前の節に属するが、内容としては「自性によって成立するもの」が何を指すかについての議論を導き出す役割を担っている。

 また、『入中論』釈に、
勝義として生じることがないので、それ自身から〔生じること〕も、他のものから生じることも否定されたとしても、現量および比量の認識対象となっている色や受などの自性は、他のものから生じるものでなければならない。もしそれを認めないらならば、諦が二つ〔ある〕とどうして言うことができようか、〔すなわち〕諦は一つしかないことになってしまうであろう。それゆえ、他のものからの生起はなければならないのである。(MABh, p.119, ll.10-15)
と説かれている。すなわち、以前、自相によって成立している原因と結果とを否定した際に、勝義としてそれらを否定することで他のものからの生起が退けられるのは正しいけれども、言説として自性あるいは自-相による生起である他のものからの生起は認めなければならない。もしそれを認めないならば、世俗としても諦は存在しないこと〔になってしまう〕ので、世俗諦は存在しないことになってしまうであろう。〔以上のように〕非難するものに対して、〔『入中論』の二つの偈(VI, 35-36)で〕順番に、自-相によって〔成立している〕生起は、二諦のいずれにおいても存在しないと論証しているが、それは、勝義としての生起はなくても、言説として自-相によって〔成立している〕生起があると主張する〔中観派〕に対して〔二諦のいずれにおいても自-相による生起はないと〕論証しているのであって、実在論者に対して〔行った論証〕ではない。それ故、中観二派に、否定対象のそれだけの違いがあるならば、チャンドラキールティは、なぜそれを特別に取り上げた否定をなさらなかったのか、と言うのは正しくない。(LN, pp.141-142)

帰謬派が、勝義としても世俗としても自性あるいは自-相による生起は存在しない、と主張するのに対し、自立派は、勝義としての生起は否定するが世俗としては自性による生起があると主張する。この世俗としての自性による生起を認めるか認めないかという点にこそ、自立派と帰謬派の相違があり、また帰謬派から自立派に対する批判もその点を問題としているのだとツォンカパは考えている。最後に登場する批判者は、もしそうであるならば、なぜチャンドラキールティがそのことを主題的に論じていないのか、と批判しているのであるが、ツォンカパによれば、二諦のいずれにおいても自性による生起が成り立たないという論証自体が、実在論者に対するものではなく、帰謬派の自立派に対する論証にほかならないので、そのような批判は当たらないと答えているのである。

 ここで、「世俗としても」自性による存在がない、ということよりも、「二諦のいずれにおいても」自性による存在を認めないということの方が重要視されていると考えることができるであろう。そのことは、二諦を別々のものとして切り離して設定する他の学派に対する帰謬派独自の立場が背景にあるとも言える。自性によって成立するものが存在しないということは、言い換えれば、絶対的な空性のことであり、それはまた縁起していることと表裏の関係にある。これもまた根本的には「中観派の不共の勝法」に帰着する考え方であると言うことができる。単に自立派に対する帰謬派の優位性を示しているわけではない。

 このような指摘を踏まえて、次に「それでは、その自-相似よって成立ものとは何を指しているのか」という問いが立てられることになる。それに続く議論が前回の記事で紹介した議論である。

2014年12月24日水曜日

ツォンカパ中期中観思想の言語論的転回

 以前、『印度学佛教学研究』に短い論文を書いた。考え方が特に変わったわけではないが、同時に特に多くの人に理解されているわけでもなさそうなので、もう少し丁寧に議論を展開したいと思い、新たな論文を企画した。しかし、調べ始めてみると、もう少し全体を見通した記述が必要なことが分かり、しかし、それを説明していると逆にポイントが分かりづらくなってしまうというジレンマに陥っている。

 ツォンカパの中観思想は、『ラムリム・チェンモ』を中心とした初期と、『善説心髄』および中論注『正理大海』を著した1407年を中心とする中期と『ラムリム・チュンワ』と『密意解明』を中心とした後期(あるいは晩年の時期)に分けることができる。

 何がツォンカパの中観思想の中心的主張であるかという問いに答えることは難しい。「言説においても自性によって成立しているものを認めないこと」が挙げられることは多い。ツォンカパ自身もこのテーゼを、帰謬派の立場を他と異ならしめる重要な論点と捉えていた。しかし、これはむしろ、より根本的な原理から派生する主張の代表的なものの一つと考えるべきであるように思う。特に『善説心髄』では、どのように捉えることが「自性によって成立するもの」であると捉えることになるかが問われる。これに対するツォンカパの答えは、言語的な活動に着目したものと言える。

 『善説心髄』において、中観派の立場を述べるときに、中観派一般の立場として、前期から続いている「中観派の不共の勝法」を簡単にまとめた後、自立派と帰謬派に分けて、それぞれの立場を論じている。自立派の立場についてまとまった論述になっている点で注目すべき箇所ではなあるが、それはまた別の機会に検討するとして(かつて書いた論文もあるが、再検討は要する)、それまでの唯識派、中観自立派を踏まえ、それらと異なる帰謬派の立場を述べる箇所で、次のように議論を運んでいる。

 すなわち、自立派の人たちは、帰謬派と自分たちの間に論証法以外の点で違いはないと考えていた。とりわけ二諦の考え方については帰謬派を批判することなく、意見の相違はないと考えていた。ところがチャンドラキールティは、自性によつて成立するものを二諦のいずれにおいても認めないということが、それ以外の立場、特に自立派との決定的な相違であと主張した。

 これは逆に言えば、他の立場において(とりわけ中観自立派において)承認される「自性によって成立するもの」が帰謬派にとって、根本的な否定対象となるということを意味している。これこそが帰謬派を自立派から区別するメルクマールということになる。そこでツォンカパは、一体他の立場が承認している(そして、それを帰謬派が否定する必要のある)「自性によって成立するもの」とは何かを問題とする。

 それならば、どのように捉えるならば、自相によって成立していると捉えている〔ことになる〕のかと問うならば、この点についてまず、学説論者(grub mtha' smra ba)の説を述べよう。
 「この人がこの業を行った(=積んだ)。この果報を受けた」という言説が用いられたとき、〔その人〕の五蘊が〔その〕人であるのか、それともそれら〔五蘊〕とは別のものが〔その人であるのか〕と、「人」という言説が用いられた、その〔人の〕実物(don)を探し求めて、同一物であるか別物であるか(don gcig pa'am don tha dad)など、何らかの結論(phyogs)が得られたのち、その人を措定する対象('jog sa)ができたならば、業を積んだ人などを措定することができるが、〔探しても実物が見つからず、いかなる結論も〕得られないならば〔業を積んだ人を〕措定することはできない〔と実在論者は考える〕。それ故、「人」という言説が用いられただけで満足せず、その言説がいかなる〔実物=基体〕に対して用いられたのかと、その〔言説〕設定の基体(gdags gzhi)がどのようなであるかを考察し、探し求めてから措定するならば、〔その〕人は自らの定義的特質(rang gi mtshan nyid、自-相)によって成立していると措定するのである。自部(=仏教徒)の毘婆沙部から中観自立派にいたるまでのすべてのものが以上のように主張するのである。
 同様に色・受などの有為法から無為法に至るまでの全て、〔たとえば〕経量部が障碍の触を排除するだけの絶対否定(med dgag)を虚空と設定するものに至るまでの全てのもの、すなわち量によって〔認識されて〕成立すると主張する全てのものを、存在するものとして措定するとき、(LN, pp.142-143)

「その語の意味するものの実体が何であるかを考察し、それが確認されて初めてその語の対象が存在していると設定できる」と、帰謬派以外のものは主張する、というのがツォンカパの理解である。たとえば、「この人がこの業を積み、この果報を受けた」と言われたとき、その「人」という語が指している対象が何であるかを確認できて初めて、この言明が妥当性を持つことになると実在論者は考える。

 もちろん自立派は中観派であるので、そのような「人」という語の対象としているものが「勝義において」存在しているとは認めない。しかし、我々の日常の世界においては、それは単なる言葉ではなく、対象の側に何らかの根拠があって成立しているものと自立派は考える。それ故、それらは人の意識に完全に還元されることなく、他の人にとっても共通に成立する客観的なものが認識の外部にあると認めていることになる。

 言葉によって名指される対象そのものではなく、そのように名付けられる根拠を問うことが、帰謬派によって批判される実在論の立場を特徴づける格率となる。これに対して帰謬派は、そのような名指される対象が対象の側において(すなわち意識の外において)根拠付けられていることを否定する。すべての存在は、名付けられただけのものであり、それ以上の根拠はどこを探しても得られない。我々の日常世界において有意義な言明が成り立ち、そしてそれに立脚して我々の日常的な行為が成り立つということのみが、それら名指される対象の存在の有意義性を保証しているのである。このことは、実在論者にとっては受け入れがたい虚無論と映るであろう。こうして実在論者は、中観派(帰謬派)を虚無論者として批判することになる。

 それに対してツォンカパ(あるいはツォンカパが考える帰謬派)によれば、命名されたものの根拠を探し求めても、どこにもそれを見付けることはできない。したがって、すべての存在は名付けられただけの存在であり、その命名の根拠になるような実体はいかなる意味でも存在しない。このような、名付けられただけの存在によって、どのように有効な因果関係が成り立っているかについては、その後の議論で説かれる(もちろん、この著作では、ということであり、同じ問題は『ラムリム・チェンモ』の時代から一貫して主張され続けている)。

 今、ここで強調したいことは、帰謬派にとっての否定対象である「自性(あるいは自-相)によって成立するもの」をツォンカパがどのように設定しているかである。この著作で特徴的なことは、それが言語論的な視点から語られているということである。他学派は、言葉によって名付けられたものの根拠を探し求め、それが得られたときに初めてその対象の存在を措定できると考える。帰謬派は、そのようなものを探し求めても得られないが、対象の存在は措定できると考える。そこに相容れない対立点があるとツォンカパはこの著作で主張しているのである。

 ただし、この問題にはいくつかの限定が付される。まず第一に、ツォンカパによれば、帰謬派以外のすべての学派は、存在をこの格率によって措定していることになるが、ツォンカパ自身はその典拠を挙げているわけではない。彼の考え方の元になっているのは、チャンドラキールティの『プラサンナバダー』におけるディグナーガ批判の一節である。しかも、もともとの文脈とは異なった議論で用いているのである。これが典拠であるとすれば、そのチャンドラキールティのディグナーガ批判の背後にある考え方を取り出し、それを自立派批判の文脈に転用していることになるあろう。

 もう一つ注意すべき点は、この「自性(自-相)によって成立するもの」の議論は哲学者(すなわち学説論者)が行っているものであって、それ以外の普通の人は、特にこのようなあり方を問うことなく日常の言語活動を行い、しかも対象がそれ自体で成立しているという倒錯した見方をしているということである。すなわち、ツォンカパがここで「自性によって成立するもの」を問題視し、それを批判しているのは、そのように主張する学説論者に対してだけであって、そのことによっては有情を輪廻に縛りつけている根本である無明を特定しているわけではないし、それを否定することができるわけでもない。この二つの議論の違いは、いつも明示されるわけではなく、我々が個々の議論のコンテキストから読み取らなければ、ツォンカパの意思を正確に理解することはできないのである。


 世俗においても「自性によって成立しているもの」を認めないという主張は、ツォンカパの根本的な主張として初期から後期まで一貫しているが、「名付けられた対象の実物を探して得られたること」ことによって「自性によって成立するもの」が設定されるという言語論的な格率は、この『善説心髄』以外にはあまり見られない。(実際には、後期の『ラムリム・チュンワ』の二諦説の箇所(LMChung, pp.106, 108)と『密意解明』の自己認識批判の箇所(Zhol版159b3)にも現れるが、議論としてではなく単に言及されるに過ぎない。あるいは検索の漏れもあるかもしれないが、それにしても、議論の対象とはなっていないだろう。)では、他の著作で「自性(自相)によって成立しているもの」がどのように規定されるかについては、また別の機会に述べることにしたい。

2014年7月20日日曜日

有と無の四つの様態の区別と幻の如き存在

 中観派の帰謬の勝法の基本的な主張の一つに、

  1. 単なる存在
  2. 自性による存在
  3. 単なる無
  4. 自性の無
を区別するという表現の仕方がある。このうち、2は有辺に陥り、3は無辺に陥り、1と4が同時に相即してなりたつことが、中観派のみの主張する勝法ということになる。

 しかし、「幻の如き存在」というのは、この四つのカテゴリーの中には位置を占めていない。にも関わらず、『ラムリム』からすでにこの表現は何度も用いられている。

 この四つのカテゴリーは、何があり、何がないか、ということについての、複雑な位相を持った表現である。「一体そもそも何が存在するのか」というような単純な問題ではない。表現は単純であるが、有と無が関連して述べられることによって、見かけほど単純にシンメトリカルな内容を持っているわけではない。

 しかし、いずれにせよ、これは存在・非存在のあり方の分類であり、しかも正しいものだけではなく、否定されるべき誤った設定も一緒に述べられているものである。

 ところが、「幻の如き存在」というのは、存在あるいは非存在のあり方ではなく、そのように認識する人の判断である。すなわち、中観の見解を得た人によって、あるいは聖者の三昧知の中で諸法がこのように理解される理解のされ方、捉えられ方である。

 昨日挙げた『三つの捉え方」というのが、まさに、存在・非存在の様相ではなく、それを存在論的前提としながら、それがそれぞれの段階の人にとってどのように捉えられるかという問題になっている。

 この区別を付けておくことは、中観派の不共の勝法の思想における幻の如き存在の位置づけと評価を考える上で、欠くことのできない観点となる。しかも、同じ認識主体との関連で二諦が設定されるツォンカパの後期の二諦説とも、似ているところと異なったところがある。幻の如き存在という表現は後期に至るまでずっと用いられ続け、たとえば『ラムリム小論』でも一節を充てて論じられている。

 同じような思想を巡って、様々な表現をしているツォンカパの中観思想だが、それらが似ているだけに、その微妙な違いを明確に意識することは是非とも必要なことだと思う。

2014年7月19日土曜日

単なる存在と幻の如き存在

 忘れないようにメモしておく。

 幻の如き存在というのは、後期に至るまで生き残る中観派の不共の勝法の思想そのものであると思って来た。もちろんその一部をなしていると言えるだろうが、ただ、縁起と空性という分け方をしたとき、その縁起あるいは現れの側面、あるいは、単に存在していると言えるもの、つまり言説有と、幻の如き存在は別のものだった。

 『ラムリム・チェンモ』の自立論証批判の箇所に、芽を捉える知に三つの捉え方があると言う。
  1. 芽に、それ自体で成立している自性があると捉える「真実に存在しているという捉え方」
  2. 芽はそれ自体で成立しているものではないが、幻の如くに存在していると捉える「偽りで存在しているという捉え方」
  3. 真偽いずれによっても限定されずに「一般的に存在しているだけという捉え方」
である。この2と3が異なった捉え方であるということが、きちんと書かれている。中観の見解を得ていない衆生には、1と3はあるが2はない。つまり幻の如き存在という見方はできないのである。

 これらは、後期の二諦説が、それを捉える意識と相対的に設定されるのとは必ずしも対応していない。1は後期の世俗諦であり、2は後期の唯世俗であるが、3は言説有ではあっても、二諦の中に位置を占めていない。逆に後期の勝義諦は、この3つの捉え方の中には見られない。

2014年7月13日日曜日

帰謬派にも主張はある?

 一部の人たちは、ツォンカパの思想の根本的な動機の一つに、帰謬派にも積極的な主張があるということを主張することがあると考えている。

 これは、「正しい見解」(正確にはlta ba「見解」としか言わない)と、「承認すること」(khas len)との区別に無頓着な理解ではないだろうか。

 前述の「レンダーワへの書簡」でも「道の三種の根本要因」でも、解脱の因の根本としてあげられているのは、出離の心と菩提心と見解とであり、この見解が中観帰謬論証派の中観思想、特に中観派の不共の勝法と呼ばれるものである。この正しい見解がなけば、いくら出離の心を起こし、菩提心を起こしたとしても、それらを支えて一切智者へと向かうことを支えることはできないのである。

 そもそも輪廻の根本は無明であり、無明とは明がないこと、すなわた無知なことである。闇に光が現れることで闇が消えてなくなるように、無明を滅ぼすためには智慧が必要である。智慧が現れることで無明は消えてなくなる。そして智慧とは真実についての正しい理解の究極のものである。真実とは仏教においては空性以外にはない。そこで空性について、そしてそれと不可分のものである縁起についての正しい見解を持つことが、無明を滅ぼす必要不可欠の条件となる。

 しかし、「承認」という言葉はそのような正しい見解について用いられることはない。これは、言説に世界における言説的行為(つまり、言葉を用いて話をしたり考えたりする日常の行為)について、それを実体的に執着することなく、その言説の世界における因果関係が成立することを「承認」することに他ならない。これはもちろん、縁起を正しく評価することであり、そのことが正しい見解の一部を構成するのではあるが、要するに言説の世界が縁起していることを「承認」する必要があるということであり、これを「承認」せず、言説の世界を否定することによって勝義に達するという見解を否定するために言っていることである。

 確かに帰謬派は言説の世界を「承認」するが、そのことが「積極的な主張がある」という意味でないことは、以上で明らかであろう。

ツォンカパが聖文殊の教えをレンダーワに書き送った書簡(前半)

 次の日と書いたが、『聖文殊の教えのレンダーワへの書簡』の翻訳がなかなか進まない。たぶん永遠に終わらない気がしてきた。分からないところが多すぎる。テキストにも問題がありそうである。いくつかの版を見たが、文字は同じであった。口語的な表現らしきものも多い。もっと丁寧にゲシェに教えてもらう必要があるだろうが、とりあえず、間違っていることを承知で、半分くらいまで文字化したので、それを掲載しておく。雰囲気は伝わると思う。

ジェ・ツォンカパに聖文殊が教えられたことの中から、結論のみを要約して、ご恩の大きい師匠であるレンダーワに書簡にして差し上げたもの


 〔聖文殊との対話の中で〕生じた、信頼できる事柄(yid ches kyi gnas)と考えられることには、信頼できる印がたくさんあるけれども、〔ここに〕書き記す余裕はないので、要約して記すならば、私に、〔何かを〕判断するような見解〔全て〕を離れる〔ことが〕帰謬派の教義であると修習していたけれども、〔聖文殊に〕よくお伺いをたてたところ、「まだ理解できていない理由がある」とおっしゃった。

 そこで、長い間、議論と考察を行い、「帰謬派の哲学には、このようなことが必要となる。あなたの心には、このようなことしかない」などたくさんのことを〔聖文殊は〕おっしゃった〔が、それら〕は、聖父子(ナーガールジュナとアーリヤデーヴァ)のテキストと一致させておっしゃったことであるので、〔私が〕理解できていない〔だけだ〕と知った。

 そこで、〔帰謬派の哲学を〕理解できるようになる方法をお伺いしたところ、教えて下さった〔方法〕を実践したことによって、今は、これまで理解できていなかった縁起の自性を初めて理解でき、大きな確信を得られるようなことが起こったのである。

 それについても、一般的には空である〔ことを理解する〕ことによって有辺(実体的実在論)を退け、〔諸存在が〕現れている〔現れ方を理解する〕ことによって無辺(虚無論)を退けるというこのことは、ローカーヤタ(順世外道)に至るまで共通した〔考え方〕である。

 それに対して帰謬派の〔不共の〕勝法では、〔諸存在が〕現れること〔を理解すること〕によって有辺を退け、〔諸存在が〕空である〔と理解する〕ことによって無辺を退ける。また空〔であるもの〕が因果〔関係にあるもの〕となることを知る必要がある。

 そして、輪廻〔から〕涅槃〔に至るまで〕の諸存在は、因に依って果が生じ、〔その因果関係が〕整合性を維持していること(mi slu ba'i tshul)を自らの心において承認し、その〔因果関係の整合性〕によって一切の辺(実在論と虚無論)を退けるという空になることなど〔の話〕を無量にあるいは詳細に〔行った〕。

 要約すれば、考察されない、あるいは相手の立場で、あるいは言説として因果〔関係〕は欺くことがないこと、考察したならば、あるいは自説においては、あるいは〔ものの〕実相(gnas lugs)としては、欺くとも欺かないとも設定することができないというような〔見解は正しく〕ない。

 考察されないということの意味は、欺かないこと(テキストはslu baだが、bka' 'bum thor buにおけるレンダーワ宛て書簡ではmi slu baになっている)であると理解し、考察したならば「これである」と〔確定的な判断は〕得られないことから、今度は、因果〔関係〕を理解して、その二つ(=縁起と空)が同一の基体に適用されることを考えて、縁起と空が分けられないと言うのでもない。原因によって結果が生じることが欺くことがないと理解する、その同じ知によって、他の知に依ることなく意識を向けられた〔対象〕が消滅するという空もまた成立すること、そして因果〔関係〕が欺かないという論証因だけで、他の論証因に依ることなく有辺〔や無辺〕などを離れた空が成立することから、因果〔関係〕が欺かないことについて根底からの確信が引き出され、他ならぬそのことによって意識の向けられた対象全てが消滅し、何も思い込むことのない〔覚り〕もまた得られのである。

 以前にも、そのような言葉は後に〔根底からの理解が得られたとき〕と変わらずにあったけれども、確信はずっと引き出されなかった。我々の考えについて私が理解していないならば、私と先生(レンダーワ)は違いがないので、先生もお考えにならないと思って〔この手紙を〕差し上げたところ、我々には考えがあるけれども、詳細は何も知らないとおっしゃった。

 それ故、〔哲学的〕見解(ものの見方)の究極的な本質はこうであり、行のデリケートな本質や、実践の道になるかならないか、顕密の非常に難解な本質などについて、以前には疑問があり、考察して〔も、理解〕が得られなかったことが、正しい論理の力によって論証されることを知ったことにより、疑問の匂いさえも無くなって、信頼が生じたのである。

 〔聖文殊は〕この〔帰謬派の〕学説に関して現在〔行われている〕講義と聴聞、修習と実践という二つ〔のうち〕講義と聴聞を重要視なさり〔次のように説かれた〕。一般に法門はたくさんあるけれども、解脱の因になるのは三つである。すなわち、出離の心と菩提心と見解とである。現在、この三つについて〔自分の身に付いた〕経験が生じたものはおろか、この三つについての正しく理解するものも稀である。

 この〔三つの〕うち、最初の二つを理解することでは、解脱の種を植えることはできず、最後〔の見解〕の力が強いので〔それによって解脱の種を〕植えることができる。

 それについても非常に努力して、そのイメージに心を向けて、〔それに〕習熟した力によって心が変化したら、努力を伴った経験が生じるので、それによって解脱の種を植えることはできるけれども、道の終端には達しない。

 輪廻における安楽と財産や衆生のことを心に思っているだけで、出離の心と菩提心が常に湧き起こる経験が生じたならば、〔それは〕資糧〔を積む〕低い段階であると考えるのである。

 輪廻〔において〕体験すること〔デメリット〕と、解脱のメリットを理解する正念正知(dran shes)を常に行って、〔輪廻におけるデメリットの〕体験に心が向かわせず輪廻の禍患を断ち切り(bcar -> bcad)、解脱のメリットに心を持して、そのイメージに習熟して出離の心の経験を生じさせずに、布施、戒律、忍耐、精進、禅定という善根に習熟しても、解脱の因には決してならないので、解脱を求める人は最初に、深遠な教えであると言われるもの全てを措いて、出離の心の考察を修習すべきである。

 大乗を実現する人は、自利に心を向けるという過失と利他のメリットを今すぐに正念正知を行い、菩提心の経験を生じるためのイメージトレーニングを行わないならば、他のことを何をしても〔覚りへの〕道〔を行くこと〕にはなりえない。なぜならば、もしそうでないならば、諸々の善根が自利に左右されて、劣った覚りの因にしかならないからである。たとえば、出離の心を正念正知しイメージトレーニングをしないならば、全ての善は〔輪廻の〕デメリットに左右されて、ただ輪廻の因となるのと同様である。

 したがって、密教などについての深遠だと言われている教えを捨て措いて、最初に出離の心と菩提心の経験を生じることを願うべきである。

 それが生じたならば、それからの全ての善は、解脱と一切智者の因に自然となっていくので、したがって、この〔出離の心と菩提心〕を修習することは価値がない(rin mi chog pa)とすることは、道の本質を全く知らないものである、と〔聖文殊は〕おっしゃっている。

2014年7月6日日曜日

聖文殊師利の道の要諦について聖レンダーワに差し上げた書簡 | ツォンカパ

rje btsun 'jam dbyangs kyi lam gyi gnad rje red mda' ba la shog dril du phul ba bzhugs so //

 書かれた時期は分からないが、ツォンカパ全集のPha巻に含まれている数フォーリオの著作。挨拶も抜きに本文が始まり、コロフォンは別人が書いている。信頼できるのかどうか、微妙。ダライラマ5世の聴聞録を確認した方がいいかもしれないが、ここでは一応、新作として扱う。

 文殊との会話、特に文殊のおっしゃったことが一番豊富に残っている。その話の中心は『道の三つの根本要素lam rtso bo rnam gsum』と被っている。ただ、文殊が教えているので、人間が書いた『三要点』よりも分かりづらい。

 内容が豊富なだけに、中観派の不共の勝法のみに焦点を合わせているわけではない。『三要点』の見解に当たる部分が、この書簡では最初に序論のように述べられている。後は実践的な話が多いのが特徴。

 今日は突然思い立って、ゴマン・ハウスでゲン・ゲルクに読んでもらったが、思いツタのが昼前なのでほとんど予習なし。最初の序論的な部分のみしか読んでいなかった。そこは分かったがその後からはほとんど聞き取れなかった。帰って読み直してみたら大分分かったので、やはり予習をして出ていくのが大事である。

 『三要点』は出離の心と菩提心と見解であり、さらにそこに奢摩他と毘鉢舎那との関係が関係して内容は複雑である。続きは明日。

2013年6月3日月曜日

幻の比喩が比喩である所以


 『菩提道次第小論』では省略されているが、『大論』では幻ないしは鏡像の比喩が、事物の無自性なることとどのような点で等しく、どこで異なっているかについての議論がなされている。

それゆえ、鏡像に顔〔の実体〕がない(gzugs bsnyan byad bzhin gyis stong pa)と理解することによって、〔その鏡像が〕本物の顔であると執着することはなくても、鏡像が本当に存在すると執着する〔ことはあるが、そこに〕何の矛盾があろうか。この点についても、言葉を学んでいない(brda la ma byang ba)幼児たちが、顔の鏡像を見たとき、その〔鏡像〕に対して戯れたりするので、かれらは〔その鏡像が〕本物の顔であると執着しているのであるが、言葉を学んだ年長者たちは、それら〔鏡像〕は〔本物の〕顔ではなく、〔本物の〕顔としては空であると確信していても、顔として現れている鏡像それ自身が、それ自体で存在していると執着するものは、真実執着〔である無明〕である。それはまた〔自らの〕心にあると、経験によって成立する。 
そうではあるが、どうして〔鏡像や幻が〕無自性の喩例として適当であるのかというと、現れているもの自体に関して空である(gang du snang ba de'i ngo bos stong pa)ので、現れているものの自性がないこと(gang du snang ba de'i rang bzhin med pa)が直接知覚によって成立する。それゆえ他ならぬその〔鏡像や幻〕を喩例にするのである。 
現れているものの自性に関して空であるというそのことが、芽などにおいて量によって成立するならば、芽の自性がないことが理解されるのであって、〔そのことは〕鏡像など〔に現れている顔に実体がないこと〕とは別である。 
このことは、「これらの壺などは真実なものとしては存在せず、世間で広く承認されたもの('jig rten rab tu grags pa)として存在しいているのと同様」(『入中論』IV, 113ab)といって、実在論者に対して壺などを無自性の喩例として挙げていることも、鏡像などと同様、一面的な空(nye tshe ba'i stong pa)〔の喩例として挙げた〕のであって、それら〔壺など〕の自性が存在しない〔という、限定なしの空の喩例として挙げた〕わけではない。なぜならば、前述したように、〔壺と同様〕車など〔の世間で広く承認されたもの〕に自性が存在しないことについての、多くの論証をお説きになっているからである。 
同様に幻においても、観客の一部のものは〔幻が〕本当の馬や象などであると執着し〔ているものを〕幻術師が馬や象が偽りのものであると知っているのも一面的な空である。 
夢において知覚する器世間・情世間の事物についても、目が覚めたときにはそれらが現れている通りのものではない(ji ltar snang ba des stong pa)偽りのものであると把握する場合と、ふたたび眠りについたときに、同じ様に〔それらが偽りのものであると〕把握する場合のいずれにおいても、夢〔に〕男女として現れたものは、他の〔現実の〕男女ではないと把握してはいるが、夢〔自身〕が無自性であると理解しているわけではない。〔それは〕たとえば、鏡像などが〔本物の〕顔ではないと確信〔していても、鏡像が空であると理解しているわけではない〕のと同じである。 
前に「幻や蜃気楼などにおいて虚構されたものは、世間の観点からも存在するものではない」(『入中論』VI, 26cd)と引用したように、蜃気楼や幻、夢において、水、馬・象、男女などが存在していると把握されるが、それらは、自己満足的な(rang dga' ba)言説の量によって否定排除される(gnod pa)ので、彼ら〔蜃気楼や幻、夢を見る人々〕が〔あると〕思っているような実物は存在しないと知っても、それは法が無自性であると理解している見方(lta ba)ではない。


 ツォンカパの主張は単純である。幻や鏡像に現れている諸事物は、現れている通りの実体は存在しない。そのことは通常の言説の量でも理解されていることであるが、まさにそれ故に、それらは、諸事物に、その実体、すなわち自性がないことの比喩となるのである。ただし、その場合、幻や鏡像自体が無自性であることが理解されているというわけではない。比喩は比喩に過ぎず、それを真実の理解そのままであると考えてはいけない、ということである。

 「一面的な空」というのは、例えば幻術師は自分が作り出した幻に実体がないことは知っているが、幻それ自体に自性がないことは理解していないからである。空の意味を半分しか理解していないのではなく、比喩的な意味での、不十分な空の理解に過ぎないのである。十全な空とは、そのもの自体の自性が存在しないことである。幻術師は、自分の作り出した幻の象が本物の象でないことを知っているだけであって、あらゆる存在に妥当する、そのものそれ自身の自性の有無を知っているわけではない。

 それにも関わらず、ツォンカパは繰り返し幻の比喩を用いる。前にも書いたように、この幻の比喩は、縁起の現れとそれが無自性空であることとが同時に成り立っていると主張する中観派の不共の勝法と等価な思想であり、同じ不共の勝法と等価な思想のうちでも、後期のツォンカパの中観哲学の中で、唯一生き残っている表現方法である。そのことは、これが、それを理解するものの知のあり方によって左右されないことを意味している。それを把握する知とは関係しない、物事の真の存在の仕方を言い表しているのである。幻の比喩も、それを把握している人の知にどのように理解されているかではなく、幻自身のあり方として、現れつつ実体がない、という複合した構造が意図されているのであり、それこそが中観派の不共の勝法の主張内容に他ならない。

 実際にはこの幻術師の比喩は、最後期の『入中論釈・密意解明』においては、発展的に自立派の主張を述べる箇所に使われるようになり、同書においては、「幻の如し」という表現は極端に減っていく。最後期の二諦論では、世俗諦と勝義諦は、同時に成立する補完的な存在論的構造というよりも、それを見る側の知のレベルによって段階分けされ、同一基体性の強調は減っていく。

 比喩は比喩であり、現実のあり方をそのまま表現しているわけではない。その意味で制約のある内容になっている。しかし、そのことを念頭に置くならば、真実のあり方へのイメージを喚起するよいモデルとなっているということができるのであろう。

2013年5月26日日曜日

幻の比喩の解釈

 「幻の如き現れ」という表現はツォンカパの中観関係テキストのみならず、全テキストに初期から後期に至るまで頻出する。それだけツォンカパにとってお気に入りの概念だったと言うことが出来るであろう。

 前回は、特に後期の『菩提道次第小論』に節を立てて論じられる部分を訳出した。ここでは、その意味を考えてみることにしたい。

 今回和訳したところは実は若干の精粗の違いや言葉の異同はあるにせよ、ほとんど、最初期の著作『菩提道次第大論』と重複している。ここの部分は初期から後期に至るまで同じ思想が持続していることを示している。

 以下に示すように、この幻の比喩の根底には中観派の不共の勝法と同じ存在論が前提とされ、またそのことを示すための別の説明となっている。それが、表だって中観派の不共の勝法に言及することのなくなった後期においても、ほぼそのまま受け継がれていると言うことは、存在論的には、同じ思想がずっと根底にあることを示しているであろう。

 前回の私訳を通読すれば、そこで同じ内容が何度も繰り返し語られていることに気付くであろう。幻や鏡像を喩例とし、人や法について、

  1. 言説知に現れていること
  2. 正理知によって自性の存在が否定され、それらが自性によって成立しているものに関して空であること
この二つの事態が同時に成り立っていると繰り返し主張する。言葉を変えてさえいない。同じ言葉を何度も繰り返している。試みに、1と2のそれぞれに分類できる表現をピックアップしてみよう。

 まず、1の「現れ=縁起」と同じことを述べているのは、

  • あるものとして現れること
  • 人として現れること
  • 業を積むもの、見られるもの・聞かれるものなどの縁起している因果関係にある全てのもの
  • 人などが言説知に疑いようもなく現れる
  • 現れが立ち上がる
  • 疑いようもなく現れている人についての諸々の言説
  • 人が「業を積むもの」「果報を感受するもの」として措定される縁起の側面
  • 業を積むもの、果報を感受するもの、前世の業・煩悩によって転生すること

 一方、2の空の側面については次のような表現が用いられている。

  • 現れたものが存在に関して空である
  • それ自体で成立している自性に関して元から空である
  • 自らの特質によって成立している自性は微塵もない
  • 人が、それ自体で成立している自性に関して空であると正理知で確信する
  • 諸法に、それ自体で成立している〔自性〕があるかないか考察する正理によって繰り返し考察したのち、そのような自性は存在しないという強固な確信が生じる
  • 人に、自性によって成立しているものは少しもないという確信を強固なものとする。
  • 人についても、自性によって成立しているものは塵ほども存在しない
などと言われる。ここでは、空であることとと、正理知によってそのことの確信を獲得するという二つのことを区別せずに挙げた。

 いずれにせよ、この縁起の側面と空の側面は、常に対になって述べられ、しかも「空であるけれども、現れる」あるいは「現れることと空であることの二つが同時に成り立つ」という文脈で用いられている。これは、中観派の不共の勝法と同じ構図である。

 実際、『菩提道次第大論』で「人が幻の如く現れる」という科段のもとに、この『菩提道次第小論』よりもやや詳しい内容が見られる。また、ここに訳出しなかった「幻の如くに現れる誤った〔現れ〕方」の中に、
前に説明した否定対象の境界線を正しく把握しないままに対象について正理によって考察して分析するとき、その対象が存在しないという〔考え〕が最初に生じ、それから考察をしている人についても、それと同様に思われて、〔対象が〕存在しないと確定する人もまた存在しないので、何についても「これである、これでない」という確定をする余地がなくなってしまって、現れが曖昧なものとなった〔そのような〕現れが立ち上るのも、自性の有無と単なる有無を区別しないことによって生じたものであり、したがって、そのような空性も縁起を破壊する空性であり、それゆえ、それを悟ることによって導き出される〔霧のように〕曖昧模糊として立ち現れる現れもまた、幻のごとく〔現れること〕の意味では決してないのである。
とあるように、「幻の如き現れ方」の誤った理解も、結局のところは自性による有無と単なる有無という四つの様態の違いを区別していないことに帰着する、とツォンカパは言う。この四つの様態は既に述べたように、ツォンカパ中観哲学の最初の主著である『菩提道次第大論』毘鉢舎那章の中心思想である「中観派の不共の勝法」の一パターンである。それがこのように最後期の『菩提道次第小論』にも言及されているということは、たとえ「中観派の不共の勝法」という呼称が用いられなくなったとしても、その根本思想は後期に至るまで受け継がれていると言えるであろう。

 もちろん、単純に「中観派の不共の勝法」の思想が後期にまで持続したと言えるわけではない。この『菩提道次第小論』の幻の如き現れの箇所は、人無我の詳論の中に含まれるが、その人法二無我の議論そのものが、『菩提道次第大論』の人法二無我の議論からの採録になっており、それに先行する『大論』の否定対象の議論と自立論証批判とは『小論』ではなくなっているが、否定対象の議論が「中観派の不共の勝法」を詳述する箇所であり、自立論証批判と人無我の議論は、その応用にすぎないからである。

 さらに二諦に着目すれば、『大論』と『小論』の違いが認められ、その二諦の詳細な検討こそが後期思想の特徴とも言えるのである。

 いずれにせよ、ツォンカパの中観思想が初期と後期で変わったのかどうか、ということはそれほど重要な問題ではなく、また解決の付く問題とも言えない。むしろ、それぞれの著作での特徴的な思想構造を問題として、その著作そのものをよりよく理解することができるようになれば、それで十分である。そして価値判断などを持ち込まずに、虚心にツォンカパの言葉に耳を傾け、それを再現できればと思うのである。

2013年5月18日土曜日

幻のごとき存在

 ツォンカパの中観関係のテキストでは、全時期に渡って、sgyu ma lta bu「幻のごとき〔存在〕」という表現、ないしはその亜種(sgyu ma bzhin du, sgyu ma dang 'dra ba, sgyu ma'i dpe, sgyu ma'i don etc.)がしばしば用いられる。

 中観関係のみならず、他の顕教のテキストや密教関係の著作にも出てくるが、この場合は、ツォンカパが究竟次第の階梯の中で重視する sgyu lus (幻身) との関連もあるのかもしれない。

 「幻」の部分は同じであるが、著作によって、その主語になるもの、および「の如し」の部分の種類に違いがある。たとえば『菩提道次第大論・小論』では lta bu「如し」が多いが、『善説心髄』ではそれはなく、それ以外の表現がいくつか用いられる。『入中論釈・密意解明』では、そもそも言及も限られる(が数例は見られる)。いずれにせよ、注釈を除く中観関係の大著は『菩提道次第大論』『善説心髄』『菩提道次第小論』であるので、それらにおける用例を細かく見ていく必要がある。が、ここでは、サチェー(見出し)にも取り上げられている『菩提道次第小論』の内容を示すことにしよう。

 とりあえず、今回は必要箇所の和訳(だいたい、当該科段の2/3程度)に当たる。以下、「諸法が幻の如くに立ち現れる」ことを説明する部分の前後の科段を示す。ページ数はショル版のものでおおよその分量が分かるであろう。科段の番号は、『西蔵仏教基本文献』第1巻、東洋文庫(1996)、p.32による。

S1: 人無我をどのように確定するか
 T1: 〔否定対象たる〕人を特定する (162a6)
 T2: 人に自性がないと確定する
  U1: 私は無自性であると確定する (163b2)
  U2: 私に属するものは無自性であると確定する (165b4)
  U3: 以上に依って人が幻の如くに立ち現れる仕方を示す
   V1: 〔経典に諸法が〕幻の如しと説かれた意味を示す
    W1: 幻の如き立ち現れの正しいあり方(166a4)
    W2: 幻の如くき立ち現れの似て非なるあり方  (168a2)
   V2: どのような方法によって〔諸法が〕幻の如くに立ち現れるようになるか (169b2)
S2: 法無我をどのように確定するか (170b2)

この科段でも、以下の和訳でも「人」という語が出てくるが、これは現代日本語の「人」の意味ではなく、仏教用語で、言わば「人格的な主体」と考えられているものであり、「私」という言葉を使うときに漠然と考えられている存在者、および、同様の衆生などの行為の主体となるような人格的存在者を指している。このような存在が「無我」すなわち無自性であるというのは、最初期からの仏教の根本的テーゼである。
 この部分の訳を作っていてしばらく時間がかかってしまった。ひとまず今回は和訳を挙げ、そこに説かれている内容についての議論は次回に回すことにしたい。現代語訳には他に

  1. ツルティム・ケサン、高田順仁訳『『菩提道次第論・中篇』 : 観の章 : 和訳』(ツォンカパ中観哲学の研究, 1)、文栄堂(1996), pp.49-63.
  2. ツルティム・ケサン、藤仲孝司訳『悟りへの階梯:チベット仏教の原典『菩提道次第論』』、星雲社(2005), pp.276-281.
  3. Jeffrey Hopkins, Tsong-kha-pa's final exposition of wisdom, Ithaca N.Y., Snow Lion Publications (2008). pp.75-85


がある。以下に訳出した箇所の多くは『菩提道次第大論』でもほぼ同じように述べられている。
 第一(V1W1)「幻の如き立ち現れの正しいあり方(sgyu ma bzhin du 'char tshul phyin ci ma log pa)」
 (中略)
『仏母経(般若経)』にも、色から一切智に至るまでの一切法は幻や夢の如しと説かれている。
 そのように説かれている「幻のごとし」の意味は二つある。すなわち、勝義諦が幻の如きものであるとおっしゃったように、唯有(yod tsam)として成立しているけれども、諦であることが否定されたものを指している場合と、空でありながら現れる幻の如き現れの二つ〔である。〕ここでは、そのうちの後者〔の意味〕である。
 この〔幻のごとき存在〕には、あるものとして現れることと、〔その現れたものが〕現れた通りの実体の存在に関して空であることの二つが必要なのであって、ウサギの角や不妊女性の子どものように現れることさえもなかったり、あるいは現れても現れた通りの実体(don)が存在することに関して空であることが意識されない場合でも(mi 'char na yang)、幻の如き現れの意味が意識されることはないのである。
 それゆえ、他の〔全ての〕法が幻の比喩と等しいことを理解させる方法(shes par byed tshul)は、次のようになる。幻術師が作り出した幻が、馬や象に関して元から空であるけれども馬や象として現れることは疑いようもなく映じてくるの(bsnyon mi nus par 'char ba)と同様に、人などの諸法もまた、対象の上では、それ自体で成立している自性に関して元から空であるけれども〔人〕として現れることは疑いようもなく理解されるのである。
 同様に、神や人間などとして現れるものは人であり、色声などとして現れるものが法であると措定するので、人と法には、自らの特質によって成立している自性は微塵もないけれども、業を積むものなど〔の人〕や、見られるもの・聞こえるものなど〔の法、すなわち〕縁起している因果関係にあるもの全てのもの(rten 'brel gyi bya byed thams cad)もまた妥当である。
 因果関係にある全てのものが妥当であるので、虚無的な空とはならない。また、諸法が元からずっとそのように〔それ自体で成立する自性に関して〕空であることを〔あるがままに〕空であると知るだけであるので、知によって作られた空でもない。所知一切がそのようなものであると主張するので、部分的な空でもない。それゆえ、その〔空〕を修習することによって、真実把握の執着全ての対治ともなるのである。
 この深甚なる意味は、いかなる知の対象にもならないわけではなく、正しい見解によって〔本来的な空を〕確定し、その正しい意味を修習する修習〔の知〕によって対象とすることができるので、修行の過程において実践することができないとか、覚られるべきもの(rig rgyu)、理解されるべきものが何もないような空でもない。
 (中略) 
 第二(V2: thabs gang la brten nas sgyu ma lta bur 'char tshul)、それでは、どのようにしたら、幻の意味が不顛倒に理解されるようになるのか、と思うならば、〔答えよう〕。たとえば、幻の馬や象が眼識に見えることと、現れている通りの馬や象は存在しないと意識によって確信すること、〔この二つの知〕に依拠して、馬や象として現れているものが、幻である、あるいは虚偽なる現れであるという確信が生じるが、それと同様に、人などが言説知に疑いようもなく現れる〔が、それと同時に〕、その同じ〔人〕が、それ自体で成立する自性に関して空であると正理知で確信する、〔その〕二つ〔の知〕に依拠して、人は幻であり、あるいは虚偽なる現れであるという確信が生じるのである。
 それ故に、三昧に入ったとき、特質を把握する〔知〕の認識対象は微塵も存在しないという虚空の如き空性を修習できるようになったならば、その〔三昧〕から出て対象の現れが立ち上る(yul snang 'char ba)のを見たとき、後得〔智〕において幻の如き空が立ち現れる('char)のである。
 それと同様に、諸法にそれ自体で成立している〔自性〕があるかないかを考察する正理によって繰り返し考察したのち、〔そのような〕自性は存在しないという強固な確信を生じたあと、現れが立ち上ってるのを見たならば、〔その現れは〕幻の如きものとして立ち現れているのであって、幻の如き空を、〔それとは〕別に確定する方法はないのである。
 (中略)
 その確信を求める仕方を分かりやすく述べるならば、前に説明したように、正理の否定対象一般を正しく〔意識に〕立ち現れさせ、自心の無明によって増益された自性〔がどのようなものであるか〕を正確に特定できなければならない。それから、そのような自性が存在するならば、同一であるか別異であるかのいずれかでなければならず、そのいずれを認めても、それに対する反対論証が生じることについてしっかりと考えて、反対論証が見られるという確信を引き出さなければならない。最後に、人に自性によって成立しているものは少しもないという確信を堅固なものとしなければならない。空の側面については、以上のように繰り返し学ぶべきである。
 それから、疑いようもなく現われるている人〔について〕の諸々の言説を意識の対象にもたらし、その〔人〕が「業を積むもの」あるいは「〔その〕果報を感受するもの」であると措定されるという縁起の側面を意識を向けなければならない。そして、自性のないものにおいて縁起が妥当することについての確信を得なければならない。
 その〔空の側面と縁起の側面の〕二者が矛盾すると思われるとき、鏡像などを喩例として〔それらが〕矛盾しないことについて考えなければならない。すなわち、顔の鏡像が、目や耳などとして現れている〔その実際の目や耳など〕は存在していないけれども、顔や鏡に依拠して〔その鏡像が〕生じることと、それらの縁の1つでも欠けたとき〔鏡像も〕消滅してしまうという二つのことが、疑問の余地なく両立している(gzhi mthun du 'du ba)。それと同様に、人についても、自性によって成立しているものは塵ほども存在しないけれども、〔そのことと、〕業を積むもの、果報を感受するもの、前世の業・煩悩になどよって転生することとは矛盾していないと学ぶべきである。以上のことは、その〔業を積む人など〕と同様の全ての主題について理解すべきことである。

 
 

2013年5月6日月曜日

事物に二つの種類がある

 勝義においては存在せず、世俗においては存在するという二面性は、自性によって存在するものは否定するが、言説において存在するものは否定しない、と言い換えることもできるが、このことをツォンカパは、また別の表現で説明している。

 すなわち、「事物」(この場合、一切法ではなく、生じ滅する有為法のみを考える。)には、

  1. 自性によって成立している事物、それ自体で存在している事物
  2. 何らかの効果を生み出す能力のあるものとしての事物
という二つの意味・用法があり、否定されるの1の、それ自体で存在している事物であり、2の、効果を生み出す能力のある事物は否定されない。

 前者が勝義においては存在しないと言われる事物であり、後者は世俗のおいて存在しているとされる事物である。これを事物という言葉の二義に関連させて説明しているのである。

 効果を生み出すことができるということは、「縁起している」ということである。自性によって成立している事物がない、ということは「無自性」、あるいは「自性に関して空である」ということである。これらが矛盾することなく、それどころか、相補う両面として同時に設立している、というのが、中観派の不共の勝法の内容である。

 こうして、ツォンカパの文章は様々な概念や表現、説き方をしながら、緊密に一つの存在論的原理へと繋がっていくのである。

二諦のいずれにおいても自性は否定される

 もう少し、「勝義において」「世俗において」という限定辞の意味を説明しておきたい。

 この二つの限定辞は、諸法が勝義においては存在せず、世俗においては存在する、というように肯定・否定で相補的に用いられることは事実であるが、一方で、勝義において否定されるものは、世俗においても存在しないとも言われる。これは矛盾していないだろうか。

 世俗の存在は、自性の無、すなわち勝義における存在の否定を認識する正理知によっては否定されることはない。もう一方で、その正理知によって否定される自性は、世俗の知である言説の量によって認識されない。確かに世俗の知に対して対象は自性によって成立しているように現れる。しかし、その自性は世俗の知によって、その存在を確定されず、正理知によっては、その存在は否定される。そのとき、対象は勝義においては存在しないことが確定される。

 しかし、それだけではなく、そのように勝義において存在しないものは、世俗においても存在することは否定される。しかし、世俗の知によってはそのことは確認されるわけではない。どうして勝義において否定されたものが、世俗においても存在しないことになるのであろうか。

 このことは、「勝義において」と「世俗において」が相補的な関係にあって、対称的な関係にないことに基因しているのだろう。勝義において存在せず、世俗において存在する、とされるものは、一切のダルマ、すなわち全ての存在である。一方、勝義において否定されるのは、自性によって存在するものであり、これはいかなる意味においても存在しない、端的な、無限定的な非存在である。それらは存在するとすれば、勝義において存在するものとなり、それはいかなる意味においても否定されない存在となる。それが否定対象である。そして、そのような自性によって存在するものの否定は、自性の有無を考察する正理知によってもたらされる。それは「勝義において」否定されるわけではない。正理知は自性の有無を考察し、そしてそれによって得られないが故に自性の存在が否定されるのであって、勝義においては自性は存在しないと否定するわけではない。

 このことはまた同時に、「自性によって」という限定辞と「勝義において」という限定辞が等価(同じ意味であるわけではない)のものであるという帰謬派の(すなわちツォンカパの)主張と同じことを意味している。それに対するに自立派は、これら二つの限定辞の意味が違うが故に、「自性によって」を否定するときに、「勝義において」という限定を付す必要があると主張することになる。

 こうして、「勝義において」存在せず「世俗において」は存在する、という表現と、勝義において否定されたものは世俗においても存在しない、という表現とが矛盾しないことが確認される。

 

2013年5月5日日曜日

「勝義において」という限定辞

 ツォンカパの思想を理解する際に、二諦の問題は様々な問題をはらんでいる。新たな解釈を提起しているようで、また同時に必ずしも記述が整理されているとは言えない。

 厳密に言えば、二諦とは「勝義諦」と「世俗諦」の二つを指す。しかし、ツォンカパの中観思想の初期から中期にかけては、二諦に対する直接的言及よりも「勝義において」「世俗・言説において」という限定的な表現の方が多く見られる。これらは厳密には二「諦」ではないが、勝義と世俗という二諦を構成するファクターについてのツォンカパの理解を探る上で欠かすことはできない。それどころか、初期のツォンカパは二諦の問題を後者のような表現を通して理解していたと言った方がいいだろう。私が以前「ツォンカパの二つの二諦説」という論文を書いたのも、そのことに気付いたからである。

 ツォンカパの中観派の不共の勝法の主張は、一切法、すなわちすべての存在は「勝義においては」存在せず、「言説においては」存在している、という肯定と否定の述語が同時に成り立つことにある。これは、それぞれ勝義無と言説有に対応する。「勝義において」と「言説において」は、存在と非存在の様態についての限定辞であり、常に同時に矛盾することなく成り立っている。これが、少なくとも、初期のツォンカパにとっての二諦説であった。

 言説において存在するということは、我々が日常的に考えたり話したりしている対象として存在しているということである。言い換えれば、それらの対象は、我々が普段、それについて何かを言い、また何かを考えている対象であるということである。したがって、「言説において」という限定が付されてはいるが、これは「存在すること」に対する様態の限定要素ではなく、存在すると「言える、考える」ことが可能である、という意味である。こうして、「言説において存在すること」は、存在・非存在の四つの様態のうちの「単なる存在」、すなわち限定なしに「存在する」ことに相当する。

 勝義と世俗をこのように考えることによって、それらは「中観派の不共の勝法」の主張に吸収され、また、その存在論によって、勝義と世俗の関係も、そして二諦の意味も再解釈されることになる。

 『菩提道次第大論』には、否定対象を否定するときに「勝義において」という限定を付すべきか否かについての議論がある。これはもともと、自立派たるバーヴィヴェーカがブッダパーリタを批判して自説を主張するために提起した問題である。しかし、ツォンカパはそのバーヴィヴェーカの批判を退けている。バーヴィヴェーカは、「それ自体で存在するもの」を否定するために「勝義において」という限定辞を必要とする、と主張する。そのことは逆に、「勝義において」は、「それ自体で存在するもの」は存在しないのだが、逆に勝義においてでなければ、すなわち世俗においては「それ自体で存在するもの」を認めていることになるとツォンカパは言うのである。

 自立派は、言説においては、自らの特質によって成立しているもの rang gi mtshan nyid kyis grub pa'i rang bzhin が存在し、それを「勝義において」否定することが無自性 ngo bo nyid med pa の意味であると考えているとしてツォンカパは自立派を批判するのである。このような存在論が当のバーヴィヴェーカの考えていたものかどうかは分からない(それを追求するのは別の仕事である。)しかし、ツォンカパは、もしかしたら何気なく(あるいは不用意に)述べられたバーヴィヴェーカの言葉から論理的に導かれる不都合な帰結を導き出そうとしているのである。

 諸法は勝義においては存在せず、言説においては(言説の対象としては)存在するという二面性は、それら諸法が幻の如き存在であるという別の主張の内実である。二諦説の言及は、前期と後期で大きく変わるが、しかし、諸法を幻にたとえる理解は全期間を通じて一貫している。そのことについては、また次の機会に触れることにする。

2013年5月4日土曜日

再び rang bzhin gyis med の解釈

 前々回の記事で、rang bzhin gyis med pa の med pa は、stong pa と同じ意味であり、「具格+ med pa」で「〜を欠いている」ないしは、「〜がない」という意味だろう、というようなことを書いた。これはかなり強引な解釈であったかも知れない。と思い直して、もう少し解釈を緩めた方がいいような気がしてきた。(ここは結論を述べるブログではなく、日々の経過を記録する場なので、このようなブレは許していただきたい。)

 rang bzhin gyis med pa に類似した表現として、rang bzhin gyis yod pa を挙げるの実は不適切であった。むしろ、同じ否定的な表現である

  • rang bzhin gyis ma skyes pa
  • rang bzhin gyis ma grub pa

を挙げるべきだろう。これらはいずれも、

  • rang bzhin gyis skyes pa
  • rang bzhin gyis grub pa
という顛倒したあり方を(それゆえ否定対象を)否定したものである。すなわち

  • 自性によって生じたものではない
  • 自性によって成立したものではない
の意味になる。これらも「自性によって、不生なものである」あるいは「自性によって、不成立なものである」というように、ma skyes pa や ma grub pa に対する様態的限定として rang bzhin gyis と言われているわけではない。これと類比的に考えるならば、rang bzhin gyis med pa も

  • 自性によって存在しているものではない
と解釈できることになるし、それでも文脈上不整合は起こらないだろう。チベット語原文はともなく、「自性によって存在するものではない」という述語は、全てのダルマに対して正しく成立するからである。そして、それは実のところ、それは「全てのダルマには自性が無い、すなわち無自性・空である」というのと同じことである。
 整理するならば、

  • rang bzhin med pa「無自性」
  • rang bzhin gyis stong pa「自性に関して空」
  • rang bzhin gyis med pa「自性がない」あるいは「自性によって存在するのではない」
  • rang bzhin gyis yod pa ma yin pa「自性によって存在するものではない」
  • rang gi mtshan nyid kyis grub pa'i rang bzhin med pa「それ自身の特質によって成立している自性がない」

はほぼ同じ内容を表していると考えられる。この場合、rang bzhin gyis medをrang bzhin gyis stong paと同じ意味と考えるにせよ、rang bzhin gyis yod pa ma yin paと同じ意味と考えるにせよ、考えられているあり方は同じであることになる。
 これは日本語で訳すときに問題が生じるのであって、チベット語で考えている分には、そのいずれの意味であるかを決着することなく使用できる可能性を示している。従って、前々回の記事でmed paをstong paと同じ意味であると言い切ったのは、強引すぎる解釈であったと反省している。要するに、チベット語で考える限り、両方の意味を含意していると言う方が適切であるだろうと、今は考えている。

2013年5月3日金曜日

言説有と勝義無

 ツォンカパの中観思想の根本的な理解には、何が存在しているのか、何が存在していないのか、そしてどのように存在し、どのように存在しないのか、という存在論的な概念の区別を理解することが必要である。大まかなことは分かるが、細かいこととなると、区別がつきづらく、そしてツォンカパはまさにその微妙で細かい区別を理解するよう求めているのである。初期のツォンカパの中観関係文献はまさにそのことを繰り返しいろいろな説や話題を通じて検証していくことによって成り立っている。

 初期のツォンカパは「中観派の不共の勝法」という言い方で、その存在論を総称している。そのいくつかの表現形式の中に、存在と非存在についての四つの様態を区別するという考え方がある。

 表面的な文言は簡単であり、少しでも仏教学や中観思想を学んだ人には馴染みのもののはずである。すなわち、

  1. 単に存在することと、自性によって存在すること
  2. 端的に存在しないことと、そのものの自性がないこと
を区別すべし、というものである。とりわけ、自性によって存在することは、「実体的に存在すること」と訳され、またそのものの自性がないこと(これについては、昨日書いた。)は「無自性」あるいは「自性空」「勝義無」などと同義である。

 端的に存在しない、というのは、原文では単にmed paとしか言われていない。だがこれは存在しないことに限定が付けられていないことを意味する。同様に単に存在しないことも限定されないyod paである(yod pa tsam「唯有」という言い方はあるが。)。それに対して自性によって存在することも、自性がないことも、yod paとmed paに対してrang bzhin gyisという限定が加わっているのである。

 もちろん、単に存在していることは否定されず、自性によって存在することは否定され、端的に存在しないことは否定され、そのものの自性がないことは肯定される。端的に存在しないとは、限定なしに存在しないことなので、いわゆる虚無論、無辺に堕していることを意味する。当然それは批判対象である。自性によって存在すると主張し、あるいはそのように思いなすことも、有辺に堕し、あるいは無明によって増益されることなので、これも否定される。

 一方、そのような限定なしに存在するとは、縁起することであり、またそれが言説有である。自性がないことは、空性の意味であり、またそれが勝義諦である。

 ここまでは、理解し易いであろう。しかし、それではそのような「存在する」「存在しない」と言われる主語になるものは何かと考えると、ややこしいことになってくる。それぞれの述語で、主語になるものが異なってくる。一番単純なのは、「単に存在する」ものである。これは「諸法」すなわち、量によって存在が確認されるもの全てが当てはまる。「自性が無い」という場合も、これと同じ外延であると言っていいであろう。それらは「自性は無いが存在はしている」と一つにまとめることができる。これは、「無自性でありながら縁起している」あるいは「自性の無いものが幻の如くに現れている」と言い換えることもできる。

 それでは、「自性によって存在している」ものは何であろうか。中観派の立場に立てば、そのようなものは存在しないので、(すなわち全てのものは自性を欠いているので)該当する存在、すなわちダルマは存在しない。ここには、中観派によって否定される、いわゆる否定対象(dgag bya)が妥当する。より正確には、否定対象は、自性によって成立しているもの、であり、あるいは何らかの対象が自性によって成立している「こと」が否定されるのである。チベット語では「もの」と「こと」の区別は特になされないので、それぞれに振り分けるのは、現代語の、あるいは日本語の制約による。

 さて、端的に存在しないものはどうであろうか。これについては、二種類が区別される。言説の量によっても存在が否定されるもの、たとえばウサギの角のようなもの、あるいは、蜃気楼のようなものである。後者は知覚には見えているが、それが実在しないことは言説の量、すなわちわれわれの通常の正しい認識によって確認される。

 一方、アートマンや我、あるいは自性によって成立しているもの、無始時来の無明の力によって、壺がそれ自体で存在していると思われている、そのような壺などである。これらは限定されることなく、存在しない。限定されないというのは、この場合、勝義においても、言説においても、という意味である。すなわち「勝義において」あるいは「言説において」というのが存在・非存在に対する限定であり、限定なしということは、このいずれの場合にも、存在する、ないしは存在しないということである。

 自性によって存在するものと組み合わせるならば、「自性によって存在するものは、勝義においても言説においても存在しない、すなわち端的に存在しない」ということになる。チベット語で言えば、rang bzhin gyis grub pa med paである。より正確には、rang gi mtshan nyid kyis grub pa'i rang bzhin med paである。これは、自性の有無を伺察する正理によって得られない(認識されない、その存在が確立されない)が故に、存在しないとされ、そのようなものは、勝義においてだけではなく、言説においても存在しないとされる。

 これが「勝義無」の意味である。勝義において存在しないが、世俗においては存在する、という意味ではない。勝義において存在しないものは、世俗においても存在しない。勝義において自性を欠いたものは、世俗においても自性を欠いている。

 それでは、われわれは世俗において自性を欠いたものを認識しているのであろうか。そうではない。無明によって汚されたわれわれの意識には、世俗のものは、自性によって、あるいはそれ自体で存在しているように見えているのである。

 それでは、われわれの世俗の認識は全て否定されることになるのであろうか。なぜならば、自性によって成立しているものは、世俗においても否定されるべきものだからである。

 しかし、それでは、ツォンカパの主張する中観派の不共の勝法が成り立たない。これは縁起しているものが同時に無自性でもあり、その二つは矛盾することなく一つのものにおいて不可欠のものとして、常に同時になりたっている、と主張するものだからである。

 この隘路をツォンカパは次のように解決する。世俗の存在、すなわち言説有を確定するのは、無明による迷乱知ではなく、言説の量である。これは論理的な仕組みで認識が成立するのであり、自性の有無には関わらない。すなわちその存在は、自性があるかどうかによっては左右されない。なぜならば、その量の対象は事象ではないからである。すなわち自性の有無を棚上げにして、個々の存在(すなわちダルマ・法)を認識している。

 これに自性があるか否かを考察し、そしてその結果自性がないと理解するのは、別の知、すなわち正理知であり、これによってその対象が幻の如き、無自性な存在であることを知ることになる。

 われわれの言説の知には、対象は自性によって成立しているかのように現れている。この現れそのものは否定することはできない。そこに存在しない自性が現れているので、自性に関する限りそれは迷乱、すなわち錯誤している。しかし、言説の量によって確定されるものは自性ではないので、言説の量によって対象の存在が確定されることに自性は関与しない。関与しないでも言説の世界における正しい認識は可能であり、因果関係の連関は正しく機能する。すなわち、縁起が成り立つのである。

 存在論的には、自性が無い、すなわち空であるが故に縁起が成り立つのであるが、縁起の世界の認識においては、自性は対象外なので、自性が見えていても、別の認識機序によって対象の存在は確定されるのである。

 その別の認識機序、すなわち言説有を設定できる言説の量の条件についても、ツォンカパはとりあえず『菩提道次第大論』で三つの条件を挙げている。

  1. 言説の知に共通認識として成立している(tha snyad pa'i shes pa la grags pa)
  2. 共通認識として成立している内容が他の言説の量によって否定されない (ji ltar grags pa'i don de la tha snyad pa'i tshad ma gzhan gyis gnod pa med pa)
  3. 自性の有無をありのままに考察する正理によって否定されないようなもの (de kho na'am rang bzhin yod med tshul bzhin du dpyod pa'i rigs pas gnod pa mi 'bab pa zhig)
ただ、これは三つに確定することではなく、表現の仕方や重点の置き方によって数え上げられ方は様々になるであろう。要するに正理知と言説の量が対象を異に、そして言説の世界で有効に機能することが言説の量によって確定されるならば、自性によって成立するものとして現れていても、言説有だと言えるが、当の自性は現れているにも関わらず、言説の量によっては確定されず、正理知によって否定され、したがって、言説の量もその点では迷乱知であるということになるのである。

 毎日書くはずがもう一週間近く更新ができなかった。今回の記事は少し長くなりすぎた。研究の毎日の記録のつもりが、必ずしも記録ではなく、論述になってしまった。とは言え、これも思いつくままに書き足し、さらに典拠を全く示していないので、論文にもならない。これをもう一度整理し、典拠を挙げていき、結論をはっきりと明示することで言説有と勝義無についての、中観派の不共の勝法の一側面を記述したいと思う。

2013年4月27日土曜日

具格+med paというときのmed paの意味

 よく知られているように、rang bzhin gyis stong paは「自性に関して空である」という意味であり、空であるという述語に対する主語は自性とは別のものである。つまりあるものが自性を欠いている、というのがrang bzhin gyis stong paの構造となる。要するに、stong paという語は、それが欠いているものを具格で表現するという用法である。「関して」という訳語は、具格を直訳しているだけであり、そのあり方に即して言うならば、何らかのものに自性がないという意味になる。

 このようにstong paは存在しないものを表すのに具格を用いる。その同じことがrang bzhin gyis med paとも、rang bzhin med paとも言われる。rang bzhin med paの方は、無自性と直訳できる。どこに自性がないのかは、la donで表される。一方、rang bzhin gyis med paという場合には、自性のないものは主格で表される。gzugs sogs rang bzhin gyis stong paというのと、gzugs sogs rang bzhin gyis med paというのが同じ意味であるとすれば、rang bzhin gyis med paも、「rang bzhinによって存在しない」という意味ではなく(ただし、おそらくrang bzhin gyis grub pa med paと言い換えることはできるであろう。)、「色などには自性がない」という意味であると考えるべきであろう。

 rang bzhin gyis yod paは、rang bzhin gyis grub paと同じ意味であると考えられ、そのgyisは根拠の具格である。またrang bzhin gyis ma grub paは、rang bzhin gyis grub paではない、という意味で、このときもgyisは根拠の具格であると言える。それに対して、rang bzhin gyis yod paの逆の関係にあるrang bzhin gyis med paの具格が、「〜を欠いている」という存在しないものを表す補語を表すと考えるのは、対応がとれないという懸念があるであろう。

 しかし、rang bzhin gyis med paのrang bzhin gyisはmed paの様態を表す限定子であり、どのように存在しないかを示している。どのように存在しないかということは、主語になる色などが存在しないと言われるときの、存在しないあり方に対する限定要素である。もしこれが、rang bzhin gyis yod paと同様の根拠の具格であるとすれば、存在しないことが、その本性的な根拠によって成立することになってしまう。もちろん、これはrang bzhin gyis med paの正しい理解ではない。そのような本性的な無は、むしろ、med pa tsam、すなわち限定されない、全面的な無を指すからである。

 とするならば、やはりrang bzhin gyis yod paのrang bzhin gyisとrang bzhin gyis med paのrang bzhin gyisは別の意味でなければならない。上に比較ししたように、rang bzhin gyis stong paとの類似性を考えるならば、rang bzhin gyis med paのrang bzhin gyisは「自性に関して」であり、med paは「を欠いている」という意味であると考えるのが適当だということになるであろう。

 もう一つの可能性は、rang bzhin gyis [grub pa] med paのgrub paが省略されていると考えること、あるいはgrub paを補って考えることもできる。実際、別にrang bzhin gyis grub pa med pa、あるいはrang gi mtshan nyid kyis grub pa med paという用例は数多く見られる。

 しかし、rang bzhin gyis med paが、もしrang bzhin gyis stong baと同じ意味であると考えられるとするならば、grub paを補うという、語感的にはかなり距離のある操作をする必要なく、そのままの表現で意味をなすことになり、より自然な解釈と言うことができるのではないだろうか。

 『蔵漢大辞典』では、stong baの項にもmed paの項にも関連を見出すことはできないが、stong baの定義に現れるdben paの定義はmed pa'am stong paとあり、dben paとmed paとstong paが同義とされている。このこともmed paをstong baの意味で使い、欠如対象を表すのに具格を用いるという用法の傍証となるのではないだろうか。

2013年4月26日金曜日

菩提道次第大論の自立派と帰謬派の区別の章

 東大のチベット語の講読で、『菩提道次第大論』の自立派と帰謬派の区別を論じる箇所を、割註入りのテキストで読むことにした。今日が初日なので、読み始められるのかどうかは分からない。

 要するにツォンカパの自立論証批判をどう理解するかという問題ではあるが、そのこと自体はそれほど難しいことではない。特に初期のツォンカパの存在論、中観派の不共の勝法の考え方に立てば、自立論証自体が成り立たないことは、演繹できてしまう。特に新たな視点は必要としない。

 そのこと自体が従来の研究で、多少言及されるにせよ、それほど重視はされてこなかったように思われる。それは何よりも「自立論証派」と「帰謬論証派」という名称、およびその分裂の端緒になった議論が、空の論証法の相違にあり、それをツォンカパがどのように解釈しているかに関心が集中しているからに違いない。

 実際、『菩提道次第大論』での議論は、長く錯綜している。ツォンカパ自身の結論ははっきりしているのに、チャンドラキールティの『プラサンナパダー』(それ自体、議論のある難解なテキストである)の解釈も、原意から外れているようで、その強引な解釈を正確に読み取ることは難しい。

 というわけで、非常に丁寧な(時には丁寧すぎる)語釈入りのテキストを読解してみることにした。これは、思想的な研究と言うよりも、古典のテキストの文言の解釈の問題である。

 割注は、
  1. ba so chos kyi rgyal mtshan (1402-1473)
  2. sde drug mkhan chen kha rog ngag dbang rab brtan (17c)
  3. 'jam dbyangs bzhad pa ngag dbang brtson 'grus (1648-1712)
  4. bra sti dge bshes rin chen don grub (17c)
の四つの注釈を合体したものであり、実際にはどこが誰の手になるものかは明確ではない。ジャムヤンシェーパのものについては「ja」と書かれているので分かる。しかし、その他のものについては、実は名前の挙げられた人のものかどうかも定かではないようである。

 文献学的にはより正確に調査する必要はあるのだろうが、ツォンカパのテキストを読むための資料としてならば、個々の著者の貢献がどれであるのかはそれほど重要ではない。時には不要な注や、間違っているのではないかと思われる注記もある。なによりも、注釈者の思想ではなく、ツォンカパのテキストを理解することを主眼とするので、細かいこと、たとえば時には文意が曖昧な場合など、深追いはせずに先に読み進めることとしたい。

 実際、これらの注釈に目を通した後でツォンカパのテキストを直接に読むと、それが非常にすっきりと、そして必要にして十分な情報を与えてくれていることが分かる。それを理解するための準備運動と言ってもいいくらいである。

 まだ初回の部分では本質的な議論には入らない。文章そのものはそれほど難しくないので、一回に2フォーリオか3フォーリオ進みたいものである。

 夏休みには自立論証についてのツォンカパの解釈について論文を書きたいので、それまでには一通り読み終わりたいと思う。